検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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水が、声を覚える話

第四十八話 水が、声を覚える話

 

湖は、朝になると少しだけ様子を変える。

夜の間に溜め込んだ音を、すべて忘れたような顔をするのだ。

 

イェルグは、水際で煙草に火をつけた。

火打石の乾いた音が、やけに大きく響く。

 

「……音は、夜に集まる」

 

独り言のように言ってから、彼は湖を見た。

水面は静かで、風に従順だった。

 

ルーネは、その横に立っていた。

彼は、ここ数日、湖から目を離すことができない。

 

「師匠」

 

その呼び方に、イェルグは少しだけ眉を動かした。

否定はしない。

 

「……怪異、なんですよね」

 

問いではなかった。

確認に近い。

 

イェルグは、煙を吐く。

 

「まだ、名前はつけてない」

 

「でも、もう……」

 

「うん」

 

それだけで、話は通じた。

 

二人は、湖から少し離れた場所に腰を下ろした。

水の匂いが薄れる距離。

 

「水域の怪異はな」

 

イェルグは、淡々と話し始める。

 

「姿があるとは限らない。

 音、影、流れ……そういう“媒介”を使う」

 

ルーネは、頷いた。

彼は、書物で似た話を読んだことがある。

 

「……歌うんですか」

 

「歌とは限らない」

 

イェルグは、指で煙草を弾いた。

 

「呼ぶ。

 名前を使うこともあるし、使わないこともある」

 

ルーネの喉が、わずかに鳴った。

 

「……子供が多い理由は?」

 

イェルグは、すぐに答えなかった。

 

「……洗礼前、あるいは洗礼が浅い」

 

ルーネは、息を呑む。

 

「水はな、境界だ。

 生と死、こちらとあちら、教会と外」

 

煙が、ゆっくりと消える。

 

「ニッケルマン、ネッカー、ニックス……

 呼び名はいくつもある」

 

ルーネは、その名前を、頭の中で反芻した。

 

「共通してるのは?」

 

「音」

 

短い答え。

 

「水は、音を運ぶ。

 人が思ってるより、ずっと遠くまで」

 

イェルグは、湖を見た。

 

「それに……水は、声を覚える」

 

ルーネは、ぞくりとした。

 

「覚える、って……」

 

「一度呼ばれた声を、真似る」

 

イェルグの声は低かった。

 

「子供の声。

 母の声。

 ……呼ばれて、安心した記憶の声だ」

 

母親の姿が、ルーネの脳裏をよぎる。

夜の湖を見つめていた、あの背中。

 

「じゃあ……」

 

ルーネは、言葉を探す。

 

「……悪意、じゃないんですか」

 

イェルグは、少しだけ、口角を下げた。

 

「性質だ」

 

それは、冷たい答えだった。

 

「善悪じゃない。

 ただ、そういうふうに、存在してる」

 

「……止められるんですか」

 

イェルグは、煙草を踏み消した。

 

「切ることはできる」

 

「救うことは?」

 

沈黙。

 

湖の方から、風が吹いた。

水面が、わずかに揺れる。

 

「……全部は無理だ」

 

イェルグは、そう言った。

 

「境界を閉じれば、声も消える。

 でも、それは……」

 

「探してる人にとっては」

 

ルーネが、言葉を継いだ。

 

「……絶望、ですよね」

 

イェルグは、何も言わなかった。

 

その夜、また一人、

湖の縁に近づいた形跡が見つかる。

 

足跡は、途中で止まっている。

まるで、呼ばれて、立ち止まったかのように。

 

湖は、今日も静かだ。

だが、確実に、声を覚えている。

 

次に呼ぶために。

 

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