検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

5 / 131
留めるための草

第四話 留めるための草

 

イェルグは、女の遺体をその場に残さなかった。

 

担架に乗せ、

川から少し離れた高みに運ぶ。

 

「埋めないんですか?」

 

護衛兵の問いに、

彼は首を振る。

 

「まだ、

 話してもらいます」

 

冗談ではない。

そういう言い方だった。

 

イェルグは、

鞄を開く。

 

中から出てきたのは、

布包みと、

小さな木箱。

 

木箱を開けた瞬間、

匂いが立った。

 

苦い。

土と鉄と、

わずかな甘さ。

 

「……薬草?」

 

「ええ。

 この土地のものです」

 

彼は、

乾燥させた根を一つ取り出す。

 

灰色がかった白。

表面に、

細い赤い筋が走っている。

 

「留め草」

 

兵が眉をひそめる。

 

「聞いたこと、ないです」

 

「教会は、

 広めたがりませんから」

 

イェルグは、

根を砕き、

小瓶に入れる。

 

水を注ぐと、

液体が、

ゆっくりと濁った。

 

「境界に生える草です」

 

瓶を振りながら続ける。

 

「墓地。

 水と土の境。

 それから……」

 

一瞬、

言葉が止まる。

 

「魔物が、

 よく通る場所」

 

兵は、

黙って聞いている。

 

「死体に使うと、

 腐りにくくなる」

 

イェルグは、

布をめくり、

女の首元を露わにした。

 

「正確には、

 死が進まなくなる」

 

喉元に、

液体を垂らす。

 

じゅっ、

という音はしない。

 

ただ、

皮膚の色が、

ほんの少し、

戻る。

 

「……生き返る、

 わけじゃないですよね」

 

「ええ」

 

即答だった。

 

「留めるだけです」

 

イェルグは、

胸と腹部にも、

慎重に塗布する。

 

指の動きは、

慣れている。

 

祈りは、

挟まない。

 

「この草、

 面白い性質があって」

 

兵が、

思わず前のめりになる。

 

「嘘を、

 嫌うんです」

 

「……は?」

 

イェルグは、

女の胸に、

布を戻した。

 

「毒でも、

 病でも、

 時間が経てば、

 同じ腐り方をする」

 

だが、と続ける。

 

「魔物由来の死だけ、

 留め草は、

 長く持たせない」

 

兵は、

喉を鳴らした。

 

「じゃあ……」

 

「ええ」

 

イェルグは、

瓶をしまう。

 

「もし、

 この死が、

 完全に魔物のせいなら」

 

彼は、

遺体を見下ろした。

 

「明日には、

 もう、

 触れません」

 

沈黙。

 

風が、

草を揺らす。

 

「逆に」

 

イェルグは、

煙草に火をつけた。

 

「人の手が、

 深く絡んでいるなら……」

 

煙を吐く。

 

「この人は、

 しばらく、

 “ここ”に留まる」

 

兵は、

背筋を正した。

 

「……教会に、

 見せるんですか」

 

「ええ」

 

イェルグは、

淡々と答える。

 

「見せます」

 

ただし。

 

「選んで」

 

留め草の匂いが、

風に乗って、

畑へ流れていく。

 

枯れた作物の間で、

それだけが、

生きているようだった。

 

イェルグは、

その匂いを吸い込み、

ゆっくりと吐いた。

 

死は、

まだ、

進んでいない。

 

だから――

急がなければならない。

 

教会監査官が来たのは、翌日の朝だった。

 

鐘の音よりも先に、

馬の蹄の音がした。

 

三頭。

よく手入れされた馬。

よく磨かれた革。

よく整えられた沈黙。

 

イェルグは、留め草を塗した遺体の傍に立っていた。

布の下、女の死はまだ、そこに留まっている。

 

「……来ましたね」

 

護衛兵が、小声で言う。

 

イェルグは頷いただけだった。

 

逃げる理由はない。

隠す理由は、あるが。

 

馬から降りた男は、若くはない。

だが、老いてもいない。

 

無駄のない動き。

視線は常に、少し高い位置にある。

人ではなく、規範を見ている目だ。

 

「検死官イェルグ」

 

名を呼ぶ声には、疑問がなかった。

確認する必要がない、という言い方。

 

「教会監査官、セレフ=オルディン」

 

胸元の印章。

正式なものだ。

 

「この地で起きた死亡事案について、

 監査を行う」

 

イェルグは、形式通りに一礼した。

 

深くは、しない。

 

「ご足労、痛み入ります」

 

監査官の視線が、

遺体へ――向かいかけて、止まる。

 

そして、布を見ないまま、言った。

 

「まず、記録を」

 

イェルグは、

その一言で理解した。

 

――この男は、死体を見ない。

 

「承知しました」

 

帳面を差し出す。

 

監査官は、

ページをめくる。

 

速い。

だが、雑ではない。

 

「外傷なし」

「毒性反応あり」

「推定死因:吸引性障害」

 

淡々と読み、

眉一つ動かさない。

 

「魔物由来と?」

 

「可能性は高いです」

 

「“高い”」

 

監査官は、

その言葉だけを、

口の中で転がす。

 

「断定は?」

 

「していません」

 

監査官は、

ようやく顔を上げた。

 

視線が、

イェルグの目を捉える。

 

「なぜ」

 

短い問い。

だが、重い。

 

イェルグは、

一拍置いて答える。

 

「死が、進んでいないからです」

 

留め草の匂いが、

風に乗る。

 

監査官の鼻が、

ほんの僅かに動いた。

 

「……境界植物か」

 

知っている。

だが、使わない立場の言い方だ。

 

「使用許可は?」

 

「事後申請です」

 

「理由は」

 

「腐敗を待てなかった」

 

監査官は、

帳面を閉じた。

 

「規定違反だ」

 

「承知しています」

 

イェルグの声は、

低い。

 

だが、揺れない。

 

「だが、

 死体は教義より先に、

 嘘をつきません」

 

一瞬。

 

空気が、

冷えた。

 

護衛兵が、

無意識に剣に手をかける。

 

監査官は、

ゆっくりと息を吐いた。

 

「……検死官」

 

名前ではなく、職で呼ぶ。

 

「君たちは、

 死を扱う」

 

一歩、近づく。

 

「だが、

 意味を扱う立場ではない」

 

その言葉は、

刃ではない。

 

だが、

深く刺さる。

 

イェルグは、

女の遺体の横に立った。

 

布の上に、

手を置く。

 

「意味は、

 後からついてきます」

 

静かに、言う。

 

「私たちは、

 順番を、

 間違えないだけです」

 

監査官の目が、

細くなる。

 

「……この件は、

 教会が引き取る」

 

「拒否します」

 

即答だった。

 

場が、

凍る。

 

「死は、

 まだここにあります」

 

イェルグは、

布を、

ほんの少しだけめくった。

 

見えるのは、

女の指先だけ。

 

――まだ、色がある。

 

「進ませていないのは、

 私です」

 

監査官は、

初めて、

遺体を見た。

 

ほんの一瞬。

 

だが、

確かに。

 

「……」

 

沈黙。

 

遠くで、

川の水音。

 

「検死官イェルグ」

 

監査官は、

低く言った。

 

「君は、

 境界に、

 踏み込みすぎている」

 

イェルグは、

視線を逸らさなかった。

 

「境界は、

 誰かが立たなければ、

 消えます」

 

その言葉に、

返答はなかった。

 

監査官は、

踵を返す。

 

「報告は、

 こちらでまとめる」

 

馬に向かいながら、

一言だけ残す。

 

「――記録は、

 読ませてもらった」

 

それが、

警告なのか、

興味なのか。

 

イェルグには、

わからなかった。

 

だが。

 

馬蹄の音が、

遠ざかった後も。

 

留め草の効きは、

まだ、

切れていなかった。

 

死は、

進まない。

 

だから――

次に進むのは、

生きている者の番だ。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。