検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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名前は、水より先に届く

第四十九話 名前は、水より先に届く

 

湖の周囲に、人が集まらなくなった。

正確には、集められなくなった。

 

捜索は続いているはずだった。

だが、誰もが疲れ切っていた。

声を張り上げても、返ってくるのは水音だけ。

それが何日も続けば、人は自然と距離を取る。

 

母親は、湖に来なくなった。

父親が止めたのか、教会が止めたのか、分からない。

イェルグは、理由を聞かなかった。

 

会わないと決めたからだ。

 

――今、会えば。

余計な声を、湖に与える。

 

検死官は、そういう判断をする。

 

イェルグとルーネは、湖の外周を、静かに歩いた。

足音を揃えない。

声を出さない。

 

水辺の草は、ところどころ、同じ方向に倒れている。

だが、そこに混乱はない。

引きずられた痕でも、争った跡でもない。

 

迷わず、近づいた痕跡。

 

「……呼ばれてる」

 

ルーネが、低く言った。

 

イェルグは、頷いた。

 

「しかも、選ばれてる」

 

岸辺に、小さな足跡があった。

大人のものではない。

だが、子供にしては、まっすぐすぎる。

 

躊躇がない。

 

「……あの年齢だ」

 

ルーネは、喉を鳴らした。

 

七歳か、八歳。

言葉を理解し、約束を信じる年頃。

 

「来い、って言われたら……」

 

「行く」

 

イェルグは、即答した。

 

「“帰れる”って声なら、なおさらだ」

 

湖の縁、少し奥まった場所に、奇妙なものがあった。

水面近くの石に、擦れた痕。

 

人の手ではない。

だが、爪でもない。

 

「……ここ、音がよく反射する」

 

ルーネは、石を指でなぞった。

指先が、冷たくなる。

 

「水と、岩と、空気」

 

イェルグは、低く言った。

 

「三つ揃うと、声は残る」

 

彼は、煙草に火をつけた。

火打石の音が、やけに鋭い。

 

「……ネッカー」

 

その名は、独り言のように落ちた。

 

ルーネの背筋が、わずかに強張る。

 

「ニッケルマン……」

 

「呼び方は違っても、性質は同じだ」

 

煙が、湖の方へ流れる。

 

「水に住み、音を使い、

 特に……洗礼の浅い子供を呼ぶ」

 

「……悪意は?」

 

「ない」

 

はっきりとした否定。

 

「あるのは、性質だけだ。

 水が低いところへ流れるのと同じ」

 

ルーネは、湖を見た。

水面は、変わらない。

 

「……じゃあ、どうして」

 

「止めるか?」

 

イェルグは、問い返した。

 

「切るか?」

 

その言葉の重さに、ルーネは口を閉ざした。

 

切る。

境界を閉じる。

声を消す。

 

それは、

探し続ける余地を奪うということでもある。

 

その日の午後、教会の使いが来た。

白い外套。

祈祷隊ではない。

だが、明らかに“教会側”の人間だ。

 

「検死官イェルグ」

 

丁寧な声だった。

 

「今回の案件、報告が遅れています」

 

イェルグは、煙草を消した。

 

「死体がない」

 

「……水域案件です」

 

相手は、言葉を選んでいる。

 

「子供の失踪。

 境界未処理。

 危険度が高い」

 

「分かってる」

 

短い返答。

 

「名前は?」

 

イェルグは、少しだけ、間を置いた。

 

「……水霊系」

 

「それ以上は?」

 

「まだだ」

 

嘘ではない。

だが、真実でもない。

 

使いは、一瞬だけ、目を細めた。

 

「教会としては」

 

声が、少しだけ硬くなる。

 

「“性質”で済ませる案件ではないと考えています」

 

ルーネは、その言葉に、息を詰めた。

 

イェルグは、使いを見た。

 

「名前をつけたら、切る」

 

それだけ言った。

 

使いは、何も言い返さなかった。

ただ、深く一礼し、去っていく。

 

湖は、静かだった。

まるで、何も聞いていないかのように。

 

だが、ルーネには分かった。

 

――教会は、もう知っている。

――名前に、近づいていることを。

 

湖は、声を覚える。

人は、名前を覚える。

 

どちらが先に、境界を越えるのか。

それは、まだ、決まっていなかった。

 

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