検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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切らないという選択の重さ

第五十話切らないという選択の重さ

 

教会からの文書は、朝に届いた。

封蝋は簡素だが、刻印は正式なものだった。

 

期限付き。

対応区分、明記。

境界危険度:中から高へ移行の可能性あり。

 

イェルグは、宿の机に文書を置き、煙草に火をつけた。

いつもより、火打石の音が遅い。

 

ルーネは、その背中を見ていた。

文字を覗き込まなくても、内容は分かる。

 

「……切れ、ってことですよね」

 

「うん」

 

否定も、強調もしない声。

 

「期限は?」

 

「三日」

 

煙が、天井へ昇る。

 

「三日以内に、

 ・怪異の同定

 ・処理方針の確定

 ・教会への報告」

 

ルーネは、喉が渇くのを感じた。

 

「死体は……」

 

「まだだ」

 

それが、問題だった。

 

検死官は、死体があって初めて、

確定した言葉を持てる。

 

死体の傷。

水の入り方。

肺の状態。

爪の痕。

骨の歪み。

 

それらが揃って、初めて「名前」が確定する。

 

「……それでも、教会は」

 

「名前を欲しがる」

 

イェルグは、淡々と言った。

 

「名前があれば、切れるからな」

 

その日、湖の周囲に、祈祷隊が配置された。

まだ、儀式は始まらない。

だが、人が立つだけで、空気は変わる。

 

母親は、姿を見せなかった。

父親も。

 

代わりに、祈祷隊の若い聖職者が、湖を睨むように立っている。

 

ルーネは、胸の奥がざわつくのを感じた。

 

――このまま切ったら。

――子供は、どうなる。

 

答えは、分かっている。

 

「……師匠」

 

湖から少し離れた場所で、ルーネは口を開いた。

 

「もし、切ったら」

 

イェルグは、煙草を吸いながら、答える。

 

「境界は閉じる。

 声は消える。

 水は、ただの水になる」

 

「……それは」

 

「助けじゃない」

 

即答だった。

 

「処理だ」

 

ルーネは、言葉を失う。

 

「じゃあ、どうして……」

 

「切らないか?」

 

イェルグは、足を止めた。

 

「検死官はな、

 死を正当化するための職じゃない」

 

湖の水面が、わずかに揺れる。

 

「何が起きたかを、正確に残すための職だ」

 

「でも……」

 

「“正確”ってのは、

 教会に都合のいい言葉じゃない」

 

その夜、ルーネは、初めて音を聞いた。

 

耳ではない。

胸の奥。

 

――ここだよ。

 

声は、はっきりしていなかった。

言葉でもない。

 

だが、安心の輪郭だけがあった。

 

母親の声に似ている気がした。

自分の記憶の中の、もっと昔の声。

 

ルーネは、飛び起きた。

汗で、背中が濡れている。

 

――聞こえなかったはずなのに。

 

翌朝、湖の浅瀬で、物が見つかった。

小さな靴。

 

子供のものだ。

片方だけ。

 

イェルグは、それを手に取った。

水に浸かった跡はあるが、

引きずられた傷はない。

 

「……置かれたな」

 

ルーネは、唇を噛んだ。

 

「挑発……ですか」

 

「違う」

 

イェルグは、首を振る。

 

「“残した”」

 

その違いが、ルーネには重かった。

 

午後、祈祷隊の長が来た。

白い衣。

老いた顔。

 

「検死官」

 

低い声。

 

「期限が近い」

 

「知ってる」

 

「名前は?」

 

イェルグは、靴を布に包んでから、答えた。

 

「ニッケルマン」

 

空気が、張り詰めた。

 

「確定か?」

 

「……ほぼ」

 

老いた聖職者は、頷いた。

 

「ならば、切る」

 

「待て」

 

イェルグの声が、低く響く。

 

「まだ、生きてる可能性がある」

 

一瞬の沈黙。

 

「水霊に連れられた子供が、生きて戻った例は」

 

「ある」

 

イェルグは、はっきり言った。

 

「少ないが、ある」

 

老いた聖職者は、目を細めた。

 

「……それは、希望か?」

 

「事実だ」

 

その言葉に、祈祷隊の何人かが視線を交わす。

 

「教会は」

 

老いた声が、少しだけ冷たくなる。

 

「希望ではなく、管理を選ぶ」

 

「だから俺がいる」

 

イェルグは、煙草に火をつけた。

 

「検死官は、

 “切る前に、事実を残す”ためにいる」

 

その夜、湖は静かだった。

だが、確実に、何かを待っている。

 

切られる前に。

名前を固定される前に。

 

ルーネは、湖を見ながら思った。

 

――自分は、どちら側なんだ。

 

聞こえる者か。

聞こえない者か。

切る側か。

残す側か。

 

答えは、まだ、出ていない。

 

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