検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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触れてはいけない水に、触れる

第五十一話 触れてはいけない水に、触れる

 

湖は、夜になると境界を薄くする。

それは、光の問題ではない。

音の密度が変わるのだ。

 

祈祷隊が配置されてから、湖は静かになっていた。

あまりに静かで、逆に、不自然だった。

 

風が吹いても、水面が揺れない。

虫の声が、岸に届かない。

音が、水に落ちていかない。

 

「……溜めてるな」

 

イェルグは、湖を見ながら呟いた。

 

ルーネは、その言葉の意味を、直感的に理解してしまった。

溜める。

声を。

記憶を。

期待を。

 

「師匠」

 

ルーネは、喉の奥を鳴らしてから、言った。

 

「……今夜、来ますよね」

 

「来る」

 

迷いのない返事。

 

「条件は揃ってる。

 祈祷隊。

 期限。

 母親の不在」

 

イェルグは、煙草に火をつけた。

 

「“切られる前に、決着をつける”」

 

それが、水霊のやり方だ。

 

その夜、イェルグは祈祷隊に同行しなかった。

正式には、監督役を拒否した形になる。

 

老いた聖職者は、苦い顔をした。

 

「責任は?」

 

「俺が持つ」

 

それだけ言って、湖から離れた。

 

代わりに、イェルグはルーネを連れて、水際へ向かった。

祈祷隊の視界から、外れる位置。

 

「……いいんですか」

 

「よくない」

 

イェルグは、即答した。

 

「だから、やる」

 

夜の湖は、昼とは違う。

水面は黒く、奥行きが分からない。

 

ルーネは、胸の奥に、あの感覚を覚え始めていた。

音が、近づいている。

 

――ここだよ。

 

声は、前よりもはっきりしている。

 

「……聞こえるな」

 

イェルグが言った。

 

ルーネは、黙って頷いた。

 

「逃げるか?」

 

「……逃げません」

 

声が、少し震えた。

 

「……聞かないふりは、できない」

 

イェルグは、短く息を吐いた。

 

「じゃあ、条件を教える」

 

そう言って、彼は腰を下ろした。

 

「ニッケルマンは、水の中からは出ない」

 

「……引きずり込む、んですよね」

 

「違う」

 

イェルグは、湖を見た。

 

「自分から、入る」

 

ルーネの背筋が、冷える。

 

「だから、呼ぶ。

 だから、安心させる」

 

湖の縁に、何かが浮かんだ。

光ではない。

反射でもない。

 

水の歪み。

 

まるで、水が、そこだけ呼吸しているような。

 

「……来た」

 

イェルグは、立ち上がった。

 

「近づくな。

 名前を呼ぶな。

 否定もしない」

 

「……え」

 

「ただ、見る」

 

それが、検死官のやり方だった。

 

水面から、影が伸びる。

人の形に、近い。

だが、完全ではない。

 

子供の輪郭。

だが、顔は、はっきりしない。

 

――ここだよ。

 

声が、ルーネの胸を叩いた。

 

足が、一歩、前に出る。

 

「……!」

 

ルーネは、歯を食いしばった。

 

「止まれ」

 

イェルグの声が、低く響く。

 

「聞くな。

 でも、逃げるな」

 

矛盾した命令。

だが、ルーネは、その意味を理解した。

 

境界に立て。

越えるな。

背を向けるな。

 

水の影が、揺れた。

 

その瞬間、

湖の中から、何かが浮かび上がった。

 

布切れ。

小さな手。

 

そして――

子供の身体。

 

完全ではない。

水に浸かりすぎている。

だが、引き裂かれてはいない。

 

イェルグは、すぐに動いた。

 

「……引き上げる」

 

祈祷ではない。

儀式でもない。

 

検死官の手順。

 

イェルグは、縄を使い、身体に直接触れないようにして、

ゆっくりと、子供を岸へ引いた。

 

水の影が、後退する。

 

――まだ、終わっていない。

 

ルーネは、膝が震えているのを感じた。

 

「……生きて」

 

「ない」

 

イェルグは、即答した。

 

「だが」

 

子供の胸に、わずかな水が溜まっている。

肺は、完全には潰れていない。

 

「……“連れて行かれきる前”だ」

 

イェルグは、身体を調べ始めた。

 

指の色。

爪。

口の中。

耳。

 

「抵抗痕、なし」

 

淡々と、記録する。

 

「恐怖反応、弱い」

 

それが、何を意味するか、ルーネは分かってしまった。

 

――怖がっていない。

――信じて、行った。

 

湖が、ざわりと揺れた。

 

怒りではない。

焦りだ。

 

「……名前を固定される」

 

イェルグは、低く言った。

 

「だから、出してきた」

 

祈祷隊の方角で、光が揺れる。

気づかれた。

 

「ルーネ」

 

イェルグは、子供の身体を覆いながら言った。

 

「これを見たこと、

 “見なかった”とは言わせない」

 

「……はい」

 

「だが、聞いた声は」

 

一拍。

 

「記録しない」

 

それが、越えた一線だった。

 

検死官は、

聞こえた声を、記録しない。

 

それは、事実を削る行為だ。

 

イェルグは、それでも、やった。

 

湖は、静かになった。

声は、引いていく。

 

切られる前に、

名前が固定される前に、

事実だけが、岸に残った。

 

子供の身体。

水の痕跡。

そして、確かに存在した、境界。

 

ルーネは、震える息を吐いた。

 

――聞こえてしまった。

――それでも、越えなかった。

 

イェルグは、煙草に火をつけた。

手が、わずかに震えている。

 

「……覚えておけ」

 

「何を、ですか」

 

「検死官はな」

 

煙を吐く。

 

「全部を救わない。

 だが、全部を切らせないためにいる」

 

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