検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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記録に残らない声

第五十二話 記録に残らない声

 

朝は、何事もなかったように始まった。

 

湖は静かだった。

風が吹けば水面が揺れ、鳥が鳴けば音が返る。

昨夜の出来事を、すべて忘れたふりをしている。

 

だが、岸には残っていた。

 

布に包まれた小さな身体。

水を含んだ服。

指先に残る、湖特有の冷え。

 

祈祷隊が到着したのは、日が完全に昇ってからだった。

白い外套が、朝日に照らされる。

 

老いた聖職者は、布包みを見下ろし、

静かに目を閉じた。

 

「……確認する」

 

それは、祈りの前の言葉ではない。

検分の宣言だった。

 

イェルグは、布を開いた。

昨日と同じように、淡々と。

 

胸部。

腹部。

四肢。

口腔内。

 

祈祷隊の若い者が、息を詰めて見ている。

 

「外傷、なし」

 

イェルグの声は、感情を含まない。

 

「水圧による骨変形、軽度。

 肺胞内に水。

 だが、完全な溺死ではない」

 

老いた聖職者が、眉を動かした。

 

「つまり?」

 

「境界に触れた状態での死亡」

 

言い換えれば、

連れ去りの途中で止まった。

 

「怪異の影響は?」

 

「ある」

 

イェルグは、指先で子供の耳の後ろを示した。

 

「水音に対する反応痕。

 恐怖性収縮、ほぼなし」

 

祈祷隊の一人が、小さく息を吸った。

 

――信じていた。

 

その事実が、場の空気を重くする。

 

「名前は」

 

老いた聖職者が、短く問う。

 

「ニッケルマン」

 

イェルグは、そう答えた。

 

「水域系。

 音を媒介に、対象を呼ぶ」

 

「処理は?」

 

「境界閉鎖を推奨」

 

老いた聖職者は、頷いた。

 

「ならば、祈祷を行う」

 

その言葉に、ルーネの肩が、わずかに強張った。

 

――切られる。

 

イェルグは、何も言わなかった。

 

祈祷は、昼に行われた。

湖の中央に向けて、

境界固定の言葉が唱えられる。

 

音は、消える。

水は、ただの水になる。

 

ルーネは、祈りの言葉を聞きながら、

昨夜の声を思い出していた。

 

――ここだよ。

 

あの声は、もう、どこにもない。

 

祈祷が終わると、湖は完全に静まった。

静かすぎるほどに。

 

「……終わったな」

 

祈祷隊の誰かが、そう呟いた。

 

老いた聖職者は、イェルグを見た。

 

「報告書は?」

 

「書く」

 

イェルグは、短く答えた。

 

宿に戻ったイェルグは、

机に向かい、報告書を書いた。

 

水域怪異。

名称:ニッケルマン。

影響:音を媒介とした誘引。

結果:死亡一名。

処理:境界閉鎖。

 

淡々とした文章。

正確で、過不足のない記録。

 

――ただ一つを除いて。

 

ルーネは、横でそれを見ていた。

 

「……声のことは」

 

「書かない」

 

イェルグは、筆を止めずに言った。

 

「記録に残せない事実もある」

 

「それは……嘘じゃないですか」

 

イェルグは、筆を置いた。

 

「違う」

 

煙草に火をつける。

 

「選別だ」

 

煙が、ゆっくりと広がる。

 

「全部を書けば、

 次からは“切る理由”にしか使われない」

 

ルーネは、黙った。

 

その夜、母親が宿を訪れた。

 

遅い時間だった。

顔色は悪く、目は赤く腫れている。

 

イェルグは、玄関先で彼女を止めた。

 

「……会わせてください」

 

声は、震えていた。

 

「無理だ」

 

「どうして」

 

「もう、切った」

 

その言葉に、母親の膝が崩れた。

 

「……じゃあ、あの子は」

 

「戻らない」

 

それ以上は、言わなかった。

 

母親は、泣かなかった。

ただ、何度も頭を下げた。

 

「探してくれて、ありがとうございました」

 

その言葉が、ルーネの胸を締めつける。

 

母親が去った後、

ルーネは、イェルグに言った。

 

「……救えた、かもしれない」

 

イェルグは、煙を吐いた。

 

「かもしれない、で仕事はできない」

 

「でも」

 

「だが」

 

イェルグは、ルーネを見た。

 

「“救えたかもしれない”って思い続けるのが、

 この仕事の報酬だ」

 

ルーネは、息を呑んだ。

 

「……師匠は」

 

「慣れない」

 

即答だった。

 

「慣れたら、終わりだ」

 

その夜、ルーネは夢を見なかった。

声も聞こえなかった。

 

湖は、ただの湖になった。

 

だが、彼は知っている。

 

――確かに、あそこには声があった。

――確かに、境界は存在した。

 

それは、記録には残らない。

だが、彼の中には、残り続ける。

 

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