検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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母が、選ばなかった道

第五十三話 母が、選ばなかった道

 

母は、湖へは行かなかった。

 

正確には、

行けなかった。

 

祈祷が行われた翌朝、

彼女はいつもの時間に目を覚ました。

体は重く、関節が軋んだが、それでも起き上がった。

 

起きてしまった以上、

一日を始めなければならない。

 

子供の靴が、戸口に残っている。

片方だけ。

もう片方は、どこかで濡れているのだろう。

 

それを拾い上げて、

母は一度、強く握った。

 

――探さなきゃ。

 

そう思う。

思うが、足が動かない。

 

湖へ向かう道を、彼女はもう、頭の中で辿れなくなっていた。

昨日まで、何度も歩いたはずなのに。

 

代わりに、思い出す。

 

朝、起こしたこと。

手を引いて、外に出たこと。

危ないから、近づくなと言ったこと。

 

ちゃんと、言った。

 

それなのに。

 

「……私が、悪いの?」

 

声に出すと、

問いではなく、確認になってしまう。

 

誰かに否定してほしい言葉だ。

だが、家の中には、誰もいない。

 

昼頃、教会の使いが来た。

丁寧な口調。

静かな声。

 

「境界は、処理されました」

 

母は、頷いた。

 

「……じゃあ」

 

「お子さんは、戻りません」

 

その言葉は、

思っていたよりも、胸に刺さらなかった。

 

むしろ、

やっと確定した、という感覚だった。

 

探すこと。

期待すること。

呼びかけること。

 

それらを、続けなくていい。

 

そう思ってしまった自分に、

母は軽く、恐怖を覚えた。

 

夜、宿を訪ねた。

検死官がいると聞いたからだ。

 

イェルグの前に立ったとき、

母は、何を言うべきか分からなくなった。

 

謝る?

責める?

縋る?

 

どれも、違う。

 

「……あの子は」

 

声が、掠れる。

 

「怖がっていましたか」

 

イェルグは、少しだけ、視線を落とした。

 

「……いいえ」

 

それだけだった。

 

母は、その場に座り込んだ。

 

泣きはしなかった。

ただ、深く息を吸って、吐いた。

 

「……そうですか」

 

その返事は、

祈りのようでもあり、

安堵のようでもあり、

逃げのようでもあった。

 

ルーネは、少し離れた場所で、その様子を見ていた。

胸の奥が、痛む。

 

――本当は、聞きたいことがあるはずだ。

――声は、聞こえたか。

――呼ばれたのか。

 

だが、母は聞かなかった。

 

聞いてしまったら、選ばなければならなくなるからだ。

 

声を信じるか。

現実を受け入れるか。

 

どちらかを。

 

「……湖に」

 

母は、立ち上がりながら言った。

 

「行かなくて、いいんですよね」

 

イェルグは、頷いた。

 

「もう、行かなくていい」

 

母は、もう一度だけ、頭を下げた。

 

「……ありがとうございました」

 

その言葉は、

感謝でも、許しでもなかった。

 

区切りだった。

 

母は、翌日、村を出た。

荷物は少なかった。

 

子供の靴は、持っていかなかった。

持っていけなかったのかもしれない。

 

湖は、何も言わない。

呼ばない。

光らない。

 

ただの水として、そこにある。

 

ルーネは、湖を見ながら思った。

 

――選ばなかったのは、母だ。

――だが、選べる形で差し出された時点で、もう残酷だった。

 

イェルグは、煙草に火をつけた。

 

「……覚えておけ」

 

ルーネは、黙って頷く。

 

「怪異よりも、

 人の選択の方が、後を引く」

 

湖は、今日も静かだ。

 

だが、

探す灯が消えた場所には、

何も残らないわけじゃない。

 

選ばなかったという事実だけが、

水より深く、沈んでいく。

 

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