第五十四話 残されたもののための記録
教会の会議室は、音が吸われるように静かだった。
石壁。
高い天井。
長い机。
祈りのための空間ではない。
整理のための部屋だ。
イェルグは、端の席に座っていた。
外套も脱がず、帽子も取らない。
机の上には、彼が書いた報告書が一部。
――事実だけを並べた、薄い紙束。
老いた聖職者が、対面に座る。
祈祷隊の長。
そして、その奥に、名前を呼ばれない者たち。
「検死官」
声が、会議を始める。
「今回の水域案件について、
報告は受け取った」
「……はい」
「処理は完了。
境界は固定され、再発の兆候もない」
それは、確認だ。
評価ではない。
「だが」
声が、少しだけ低くなる。
「記録に、不足がある」
イェルグは、何も言わなかった。
「音による誘引、という表現。
これは、曖昧だ」
「伝承に基づいています」
「ならば」
老いた聖職者は、指を鳴らした。
「音声模倣、もしくは幻聴誘発と記すべきだ」
ルーネは、部屋の隅で、そのやり取りを聞いていた。
胸の奥が、ひりつく。
――違う。
――あれは、そんな言葉じゃない。
「……その表現は、適切ではない」
イェルグが、静かに言った。
「何が、違う」
「意思があるかのように誤解される」
一瞬、沈黙。
「意思がない、と?」
「分からない」
イェルグは、即答した。
「だから、断定しない」
老いた聖職者は、ゆっくりと息を吐いた。
「検死官」
「はい」
「君は、境界を“曖昧なまま”残すことを、
善だと考えているか」
イェルグは、視線を上げた。
「善悪で考えていません」
「なら、何だ」
「……責任です」
会議室の空気が、微かに動いた。
「切れば終わる。
だが、切ったあとに残るものは、
教会は記録しない」
「それは、我々の役目ではない」
「だから、俺が書く」
老いた聖職者は、目を細めた。
「君の報告書には、
“聞こえた可能性”が欠落している」
その言葉に、ルーネの心臓が跳ねた。
「……意図的か」
「はい」
即答。
会議室が、静まり返る。
「理由を聞こう」
「それを書けば」
イェルグは、淡々と続ける。
「次からは、
“聞こえたかどうか”で切るようになる」
「それは、危険だと?」
「危険じゃない」
一拍。
「楽なんです」
その言葉が、部屋に落ちた。
「聞こえた。
だから切る。
聞こえない。
だから安全」
「……単純だ」
「単純すぎる」
イェルグは、煙草を取り出し、
火をつけかけて、やめた。
「聞こえた者は、
選ばれたわけじゃない」
ルーネの顔が、脳裏に浮かぶ。
「ただ、境界に立ってしまっただけだ」
老いた聖職者は、しばらく黙っていた。
「……教会は、
境界を管理する組織だ」
「知ってます」
「曖昧さは、害になる」
「……分かってます」
その言葉は、嘘ではなかった。
「だが」
イェルグは、続けた。
「曖昧さを全部削ったら、
残るのは“処理された死”だけだ」
ルーネは、初めて理解した。
――師匠は、教会に逆らっているんじゃない。
――教会が拾わない部分を、拾っているだけだ。
会議は、結論を出した。
報告書は、修正される。
イェルグの原文は、内部資料として保管。
正式記録には、簡略化された表現が使われる。
処罰は、なし。
「だが」
老いた聖職者は、最後に言った。
「次も同じなら、
君を外す」
それは、脅しではない。
事務的な通告だった。
会議室を出た後、
ルーネは、しばらく言葉が出なかった。
廊下は長く、冷たい。
「……師匠」
「ん」
「後悔、してますか」
イェルグは、歩きながら答えた。
「毎回」
「……それでも」
「それでも、やる」
煙草に火をつける。
「後悔しない仕事は、
人を殺す」
その夜、ルーネは記録を書いた。
正式なものではない。
誰にも提出しない。
自分のための、覚え書き。
湖で、声を聞いた。
だが、それは命令ではなかった。
安心だった。
怖くなかった。
だから、危険だった。
書き終えて、紙を折る。
――残すべきなのは、
――事実じゃなくて、
――感触なのかもしれない。
窓の外、湖は闇に沈んでいる。
もう、何も呼ばない。
だが、ルーネは知っている。
切られた境界の向こうに、
確かに、何かがあったことを。
それを、誰も覚えていなくても。