検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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探さない灯

第五十五話 探さない灯

 

春の終わり、湖の水位は少しだけ下がった。

 

干上がったわけではない。

ただ、岸が広くなり、足場が増えただけだ。

 

人々は言う。

「もう危なくない」

「祈祷が効いたんだ」

 

子供たちは、以前よりも遠巻きに水を見る。

近づかないことを、覚えた。

 

それを、成長と呼ぶのかどうかは、分からない。

 

イェルグは、最後の確認のために湖を訪れた。

検死官としてではない。

ただの立会いだ。

 

ルーネも同行している。

 

二人は、言葉少なに歩いた。

この事件について、もう語ることはない。

 

湖畔に立つと、

風が水面を撫で、

ただの音が返ってくる。

 

呼びかけでも、模倣でもない。

 

「……何も、聞こえませんね」

 

ルーネが言う。

 

イェルグは、煙草に火をつけた。

 

「聞こえないのが、正常だ」

 

「……はい」

 

それは、安堵でもあり、

わずかな喪失でもあった。

 

帰り道、村外れの小道で、

ルーネは、ふと立ち止まった。

 

濡れた土。

石の隙間を流れる水。

 

――ちろ、と。

 

ほんの一瞬。

水が動く音に、

似たものを聞いた気がした。

 

心臓が、跳ねる。

 

だが、今回は違った。

 

立ち止まるだけで、

足は前に出ない。

 

名前を、考えない。

意味を、探さない。

 

「……今」

 

ルーネが言いかけて、止まる。

 

イェルグは、彼を見た。

 

「越えてない」

 

その一言で、十分だった。

 

ルーネは、深く息を吸って、吐いた。

 

「……はい」

 

二人は、歩き出す。

 

その音は、

もう、追ってこない。

 

 

母の話は、後から聞いた。

 

教会の書簡に、

付記のように書かれていた一文。

 

事件関係者の一名、

別の地域に移住。

 

それだけだ。

 

だが、しばらくして、

行商人から、別の噂が届いた。

 

ある村に、

子供を連れた女がいる。

 

年は合わない。

顔も分からない。

 

血縁かどうかも、

誰も知らない。

 

ただ、その子は、

夜に水を怖がらないらしい。

 

「湖の話は、しないそうです」

 

それを聞いたルーネは、

しばらく黙っていた。

 

「……それで、いいんでしょうか」

 

イェルグは、答えなかった。

 

煙を吐き、

遠くを見る。

 

「探さない、って選択もある」

 

やがて、そう言った。

 

「探すことだけが、

 愛じゃない」

 

ルーネは、その言葉を、胸にしまった。

 

 

報告書は、すでに処理されている。

 

正式記録には、

怪異の名前と、処理方法だけが残った。

 

湖は、安全。

再発なし。

 

欄外に、イェルグの筆跡で、

小さく書かれた一文がある。

 

※誘引条件、未確定。

音の性質については、今後も留意。

 

それだけ。

 

誰も、そこを読まない。

 

だが、

消されてもいない。

 

ルーネは、その記録を見て、

初めて思った。

 

――終わらせなかったんだ。

――全部は、切らなかった。

 

それで、いいのだと。

 

 

湖は、今日も静かだ。

 

光は浮かばない。

声もない。

 

だが、

探さないと決めた灯は、

確かに、どこかで続いている。

 

それは、呼ばない。

誘わない。

 

ただ、生きている。

 

この事件に、

名前をつけるなら。

 

「探すものの灯」ではなく、

 「探さない灯」。

 

そして、検死官は、

今日も境界に立つ。

 

越えないまま。

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