煙が消えるまで
第五十六話 煙が消えるまで
教会の宿の裏庭は、夕方になると静かだった。
祈祷堂からは一段低い場所にあって、石垣が風を遮る。人の通り道でもない。わざわざここに来る者は、だいたい用事のない人間だけだ。
イェルグは壁際に寄り、煙草に火をつけた。
火は一度でついた。
珍しいことだ。
湿った指先に、乾いた熱が移る。彼は深く吸い込み、肺の奥に煙を落とす。何かを考える前に、息を吐いた。
煙は、思ったよりも上に行かず、低く漂ってから崩れた。
「……風、止んでますね」
少し離れたところで、ルーネが言った。
声をかけるか迷った末の距離だった。
「そうだな」
イェルグはそれ以上言わない。
二人の間に、沈黙が落ちる。
重くも、気まずくもない。ただ、置かれたままの時間。
事件が終わった直後だというのに、体はもう次の仕事を探していなかった。
それが、ルーネには不思議だった。
――終わった、のだ。
本当に。
湖のことも、母のことも、光のことも。
すべて「処理済み」として、棚に収められている。
それなのに、心のどこかが、まだ水辺にある気がする。
「……検死官って」
ルーネは、途中で言葉を切った。
今のは、質問じゃない。
イェルグは、煙を吸いながら待った。
「仕事がないとき、何してるんですか」
「こうしてる」
煙草を持ち上げてみせる。
「それだけ?」
「それだけだ」
少し嘘だったが、訂正はしない。
ルーネは、小さく息を吐いた。
思っていた答えより、ずっと現実的だった。
「……前は」
ルーネの声が、わずかに揺れる。
「聞こえたら、動かなきゃいけない気がしてました」
イェルグは、視線を向けずに言う。
「それで、今回は?」
「……立ち止まりました」
言葉にすると、胸の奥が少しだけ軽くなった。
イェルグは、煙草を灰皿代わりの石に軽く叩く。
灰が、音もなく崩れ落ちる。
「それでいい」
「……いいんですか」
「越えなかった。それだけだ」
評価でも、慰めでもない。
事実としての言葉。
ルーネは、その背中を見て思う。
この人は、
“正しい”ことを言わない。
“許す”とも言わない。
ただ、線を示すだけだ。
煙草が、半分ほどになった。
「イェルグさん」
「なんだ」
「……次の事件」
「ある」
即答だった。
「教会は、仕事を切らさない」
その言い方には、皮肉も諦めも混じっている。
「……それでも」
ルーネは、一瞬だけ迷ってから言った。
「俺、ついていきます」
イェルグは、ようやくこちらを見た。
一拍。
それから、短く頷く。
「それが仕事だ」
それ以上の言葉はない。
煙草は、残りわずかだった。
イェルグは最後の一吸いをして、火を落とす。
赤い点が消えるのを、ルーネはじっと見ていた。
何かが終わったわけじゃない。
何かが始まったわけでもない。
ただ、
今日が、今日として終わる。
二人は、宿の中へ戻る。
背後で、裏庭は静かなままだ。
灯は、点かない。
探す理由も、今はない。
それでいい、と。
煙の残り香が、そう言っている気がした。