第五十七話 越えない夜
夜は、思っていたよりも静かだった。
教会の宿の天井は低く、梁が近い。横になっていると、世界が狭くなったみたいで、少しだけ落ち着く。外からは、遠くで水の音がする。川か、風か、どちらでもいい類のやつだ。
ルーネは、まだ眠れていなかった。
灯りは落としている。
目を閉じても、闇がちゃんと暗くならない。
今日一日を、頭の中でなぞろうとして、やめた。
そういうことをすると、決まって余計なものまで拾ってしまう。
――探さなかった。
その言葉だけが、残っている。
正しかったのかどうか、分からない。
分からないままでもいい、と言われた気がしただけだ。
イェルグは、答えをくれない。
でも、線は引く。
「越えるな」でもなく、「行け」でもない。
ただ、「そこだ」と言う。
ルーネは、それが少し怖くて、少し救いだった。
布団の中で、手を握る。
指先に、昼間触れたものの感触がまだ残っている気がした。
水の冷たさ。
死体の重さ。
境界に近づいたときの、耳の奥が詰まる感じ。
聞こえた。
確かに、聞こえた。
それでも、足は動かなかった。
――あれは、弱さだったのか。
そう考えて、首を横に振る。
違う。少なくとも、今はそう思いたい。
「全部拾う必要はない」
それは、イェルグの言葉じゃない。
彼は、そんなふうに言わない。
でも、一緒に歩いているうちに、
そういう考え方が、少しずつ染みてきた。
検死官は、すべてを救わない。
境界を越えない。
それは、冷たい仕事だ。
けれど、だからこそ、人でいられる。
ルーネは、自分がまだ若いことを自覚している。
すぐに傾く。
声に引かれる。
意味を与えたくなる。
でも、今日は踏みとどまれた。
それが誇らしいのか、
それとも、どこかで残念なのか。
判断がつかない。
布団の中で、体を横向きにする。
壁が近づく。
――次は、どうなるんだろう。
次の事件。
次の死体。
次の、聞こえるかもしれない声。
そのたびに、選ばなければならない。
行くか、行かないか。
越えるか、留まるか。
全部、誰かに決めてもらえたら楽なのに、と思う。
同時に、それではいけないとも思う。
イェルグは、決めてくれない。
だから、ルーネは隣に立てる。
煙草の匂いが、ふと蘇る。
裏庭の、あの夕方。
煙が、上に行かず、低く漂っていた。
あれは、何かの兆しだったんだろうか。
たぶん、違う。
意味なんて、後からつけるものだ。
ルーネは、ゆっくりと息を吐く。
胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ抜ける。
今日は、越えなかった。
それだけでいい。
明日、越える日が来るかもしれない。
来ないかもしれない。
それを決めるのは、明日の自分だ。
そう思ったら、
ようやく、闇が闇として落ちてきた。
意識が、ゆっくりと沈む。
灯は、点かない。
でも、夜は続く。
その中で、自分は生きている。
それだけを確かめながら、
ルーネは、眠りに入った。