検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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救われなかったものたち
橋の中央で


第五十八話 橋の中央で

 

雨は、夜明け前から降り続いていた。

 

石橋は古く、欄干の縁に苔が張りついている。川は増水し、濁った水が橋脚を舐めるように流れていた。人が立ち止まるには、あまり向かない場所だ。それでも、死体は橋の中央にあった。

 

仰向け。

両足は揃っていて、倒れたというより、置かれたように見える。

 

イェルグは、外套の裾を軽く払い、死体の横にしゃがみ込んだ。雨粒が、帽子の縁から落ちて、死者の頬を打つ。反応はない。もちろんだ。

 

「……刃物じゃない」

 

独り言のように呟きながら、首筋に手を伸ばす。皮膚は裂けているが、切断ではない。叩き潰された痕だ。鈍く、重いもの。しかも一撃。

 

「防御創、なし」

 

ルーネは一歩下がった場所で、その様子を見ていた。橋の上に立つだけで、胸の奥が落ち着かない。逃げ場がないからか、それとも、ここが“境目”だからか。

 

「争った形跡もないですね」

 

「ああ。逃げてもいない」

 

イェルグは、死体の足元を見る。靴底は濡れているが、乱れていない。踏み出した痕も、引きずった跡もない。

 

「立ち止まったまま、殺されてる」

 

それは奇妙だった。

襲われたなら、反射的に身を引く。

恐怖を覚えたなら、走る。

 

だが、この死体は、そうしなかった。

 

ルーネは、喉の奥が詰まるのを感じた。

――聞こえたんじゃないか。

そんな考えが、頭をよぎる。

 

イェルグは、懐から煙草を取り出したが、雨を見てやめた。代わりに、死体の頭部を慎重に動かす。

 

「同じ高さだ」

 

「え?」

 

「打撃の位置。ちょうど、この辺り」

 

自分の胸元を指で示す。

それはつまり、相手は被害者と正面から向き合っていたということだ。

 

「……誰かと、話してた?」

 

ルーネの問いに、イェルグは答えなかった。ただ、橋の両端を見る。霧の向こうに、道が伸びている。行く者と、戻る者。そのどちらでもない時間が、ここにはある。

 

「この橋で、過去にも人が死んでる」

 

「えっ」

 

「記録は薄い。事故扱いだ」

 

事故。

その言葉が、ルーネの胸に引っかかる。

 

雨音が、強くなる。

橋の中央で、死体は動かない。

 

イェルグは立ち上がり、外套の襟を正した。

 

「これは討伐の話になる」

 

「……魔物、ですか」

 

「ああ」

 

断定だった。

だが、その声音には、喜びも緊張もない。ただの事実。

 

ルーネは、もう一度、死体を見た。

立ち止まり、迷い、逃げなかった人間。

 

橋の中央という場所が、急に狭く感じられる。

 

――近づいてはいけないものが、ここにはいる。

 

その確信だけが、雨の中で、はっきりと残っていた。

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