第五十九話 通らなかったもの
橋の両端に、小さな集落がある。
片方は川上、もう片方は川下。どちらも大きくはないが、橋があるおかげで往来だけは絶えなかった。
遺体が見つかった翌日、雨は止んでいた。
濡れた石畳が白く乾き始め、橋の中央には、すでに何事もなかったかのように人が行き交っている。ただし、足取りはどこか早い。
「昨日の朝、あの人を見た」
最初に口を開いたのは、川下の集落に住む荷運びだった。
年の頃は四十を越えたあたり。目を合わせない。
「橋の真ん中で、止まってた。誰かがいるみたいに」
「話していた?」
イェルグの問いに、男は首を振る。
「いや……声は聞こえなかった。ただ、立ってた。行くか戻るか、迷ってるみたいに」
ルーネは、その言葉に胸がざわつく。
迷う。
それは、生きている人間なら、当たり前の行為だ。
別の女は、こう言った。
「夜になると、この橋は嫌なんです。昔から」
「昔から?」
「ええ。渡るときは、止まるなって」
言い伝えのような口ぶりだった。
理由は知らない。ただ、そう教えられてきた。
「走れとも言われない。ただ、止まるなって」
イェルグは、橋の中央を見る。
今は何もない。ただの石の継ぎ目だ。
「過去にも、同じ場所で?」
「ええ……何人か。多くはないけど」
事故。
転落。
足を滑らせた。
そういう言葉で、片づけられてきたらしい。
ルーネは、話を聞きながら、胸の奥に冷たいものが溜まっていくのを感じていた。
誰も、はっきりとした“異変”を見ていない。
ただ、止まった。迷った。それだけだ。
「通らなかった、ってことですね」
思わず口にすると、イェルグがちらりとこちらを見る。
「通れなかった、じゃない」
低い声だった。
「通らなかった」
違いは、わずかだ。
だが、その差は、決定的だった。
選ばなかった。
進むことも、戻ることも。
橋の中央は、そういう場所なのだと、ルーネは思う。
どこにも属さない。どこにも行かない。
「……悪意は、ないんですね」
「少なくとも、ここにいるものには」
イェルグはそう言って、煙草をくわえた。火はつけない。ただ、噛むだけだ。
「だから厄介だ」
橋の向こうで、子どもが走り出す。
親が声を上げる前に、子どもは渡りきる。
止まらなければ、何も起きない。
その単純さが、ルーネには恐ろしかった。
善悪ではない。
罪でもない。
ただ、立ち止まった者が、死ぬ。
「……この橋、閉じられるんでしょうか」
「いずれな」
イェルグは、そう答えたが、目は橋を見ていなかった。
もっと先――道の続く先を、見ているようだった。
ルーネは、自分の足元を見る。
今、自分は立ち止まっている。
それでも、何も起きない。
まだ、“条件”を満たしていないだけだ。
その事実が、かえって重く、胸に残った。