第六十話 処理の痕
教会の記録庫は、地下にあった。
石造りの壁は湿り気を帯び、紙と黴の匂いが混じっている。灯りは最低限で、影の方が多い。
「この辺だ」
イェルグは、古い帳簿を机に置いた。革表紙は擦り切れ、背の文字は半分消えている。年代も、用途も、曖昧なまままとめられた束だ。
ルーネは、そっと覗き込む。
死亡。事故。転落。
簡素な言葉が、同じ書式で並んでいる。
「……橋、ですね」
「数は多くない。だが、偏っている」
イェルグは指先で、同じ地名をなぞった。
川沿い。峠道。古い関所跡。
どれも、人が“通るために作られた場所”だ。
「検死記録は?」
「残っていない。もしくは、最初から作られていない」
それはつまり、確認する必要がないと判断されたということだ。
事故として扱えば、それで終わる。
ルーネは、胸の内で反発を覚えた。
死体を前にして、確認しないという選択。
それは、死を軽く扱うことと同義だ。
「共通点があります」
ページを繰りながら、ルーネは言った。
「どれも、即死。重傷を負って運ばれた記録がない」
「そうだ」
イェルグは短く頷く。
「一撃で終わっている。助けを呼ぶ時間すらない」
処理。
その言葉が、頭に浮かぶ。
殺した、ではない。
争った、でもない。
最初から、終わらせるつもりで、そこにいた。
「……相手は、同じ高さから殴ってます」
ルーネは、思い出す。橋の中央で見た死体。
首元、鎖骨、胸のあたり。
どれも、立ったまま向き合わなければ届かない位置だ。
「上からでも、下からでもない。正面から」
「だから、逃げない」
イェルグの声は、淡々としていた。
「気づいたときには、終わっている」
帳簿の隅に、赤い印がついているページがあった。
後から付け足されたものだ。
「これは?」
「注意喚起だ。だが、理由は書かれていない」
ルーネは、その曖昧さに、ぞっとした。
危険だと分かっているのに、説明しない。
知っている者だけが、避ける。
「……教会は、全部同じだと思っているんですね」
「区別する意味がない、と思っている」
イェルグは、椅子に深く腰を下ろした。
「結果が同じなら、原因は一つでいい」
それは、管理の論理だ。
世界を扱いやすくするための、割り切り。
ルーネは、帳簿を閉じた。
紙の音が、やけに大きく響く。
「でも、今回の橋の件……」
「違和感がある」
言葉を継がずとも、通じた。
「これは、“慣れている”」
イェルグはそう言った。
「役割として、殺している」
それは、怒りでも、飢えでもない。
恨みですらない。
ただ、そうするものだから、そうしている。
ルーネは、思わず自分の手を見る。
もし、自分が同じ立場に置かれたら。
何かを“仕事”として続けた末に、他の選択肢を失ったら。
「……止まるな、って言い伝え」
「ああ」
イェルグは立ち上がり、帳簿を元の棚に戻した。
「知っている者は、立ち止まらない。知らない者だけが、死ぬ」
それは、罠ですらない。
ただ、そういう場所が、そういう形で残っているだけだ。
記録庫を出ると、外は曇っていた。
光は弱く、影は長い。
ルーネは、橋のことを思い浮かべる。
境界に立つということ。
通すか、通さないかを決めるということ。
――これは、魔物の話じゃない。
人が作り、人が放置し、人が忘れた仕事の話だ。
その気づきが、胸に重く沈んだまま、消えなかった。