第六十二話 赤い帽子
最初に気づいたのは、色だった。
橋の手前、川沿いの草むらに、不自然な赤が落ちている。
花ではない。実の色でもない。湿った布の、沈んだ赤だ。
「……あれは」
ルーネが足を止めると、イェルグもすぐに察したらしく、無言で距離を詰めた。
近づくにつれて、匂いが変わる。
鉄の匂い。乾ききっていない血の、甘さを含んだ臭気。
鼻の奥に残る、嫌な重さ。
赤い布は、帽子だった。
小さい。
大人用ではない。子ども用とも言い切れない、だが明らかに人間の頭の形を想定して作られている。縁は擦り切れ、ところどころが黒ずんでいる。
「……血だな」
イェルグが言う。
布の内側に、乾いた血の跡が染み込んでいる。
量は多くない。だが、何度も付いて、乾いて、また付いた痕だ。
「一度きりじゃない」
ルーネは、そう判断した。
帽子のそば、石橋の縁に、擦れた跡がある。
石が削れ、粉になっている。
「重いものが、何度も当たってる」
「引きずった跡じゃない」
イェルグが補足する。
「踏み込んでる。前に出て、叩きつけてる」
その言い方が、妙に具体的で、ルーネは喉を鳴らした。
橋の中央に近づくにつれて、空気が変わる。
音が、減る。川の流れは聞こえるのに、それ以外が遠のく。
「……立ち止まりたくなる」
無意識に出た言葉だった。
イェルグは否定しない。
「ここは、そういう場所だ」
橋の中央。
何もない。
だが、確かに“あった”気配だけが残っている。
石の表面に、暗い染みがある。
血だ。薄く、広がっている。乾いて、石と同化しかけている。
その横に、別の痕。
円形に近い、凹み。
「……靴跡?」
「鉄靴だな」
イェルグの声は低い。
「しかも、古い型だ。底が厚い」
ルーネは、息を吸う。
胸の奥が、ひやりと冷える。
頭の中で、形が組み上がっていく。
低い背丈。
重い足。
布を被り、ここに立ち、渡る者を待つ。
「……見られてる気がする」
そう言った瞬間だった。
橋の中央、何もないはずの空間に、違和感が生じた。
輪郭だ。
最初は曖昧だったものが、急に“焦点を持つ”。
人影。
小さい。
赤い帽子。
「――っ」
ルーネは、反射的に一歩下がった。
それは、そこに“現れた”のではない。
最初からあったものを、認識してしまっただけだ。
顔は、人に近い。
だが、目が合わない。こちらを見ていない。
橋の、同じ一点だけを、見ている。
足元が、見えた。
鉄靴。
分厚く、無骨で、装飾のない靴。
人の足の形をしているが、それ以上に“重さ”を主張している。
「……実体だ」
ルーネの声は、震えていなかった。
ただ、低かった。
イェルグは、ゆっくりと頷く。
「間違いない。レッドキャップだ」
その言葉が落ちた瞬間、圧が増した。
――止まれ。
声ではない。
だが、確かにそう言われた。
足が、動かなくなる。
理屈ではない。ここから先に進むことが、“許されていない”。
ルーネは、歯を食いしばった。
見てしまった。
理解してしまった。
これは、守るために立っている。
だが、守っているのは人ではない。
役割だ。
「……今は、触るな」
イェルグが、低く言う。
「今日は、見るだけだ」
赤い帽子の下の存在は、動かない。
ただ、橋の中央に立ち続けている。
渡るな、と。
立ち止まれ、と。
逆らう者を、潰すために。
ルーネは、目を逸らさなかった。
逸らせなかった。
布。
血。
鉄の匂い。
それらが、頭から離れない。
橋を離れたあとも、赤い色だけが、網膜に残り続けていた。
――倒せるかどうか。
その答えは、まだ出ていない。
ただ一つ、はっきりしたことがある。
これは、実在する。
そして、見てしまった以上、もう知らなかった頃には戻れない。