検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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橋の上で

第六十五話 橋の上で

 

橋の上に踏み出した瞬間、空気が変わった。

 

霧が濃くなる。

音が、完全に途切れる。

川の流れさえ、遠い。

 

赤い帽子は、そこにいた。

 

昨日と同じ位置。

一歩も動いていない。

 

「反応は、まだだ」

 

イェルグが低く言う。

 

二人は、橋の中央に向かって歩く。

一定の距離を保ちながら。

不用意に速くも、遅くもならない。

 

作業だ。

そう自分に言い聞かせる必要があるほど、状況は静かだった。

 

鉄靴が、わずかに軋む音を立てた。

 

それが合図だった。

 

赤い帽子が、こちらを向く。

 

目は、黒い。

光を反射しない。

 

「……来る」

 

ルーネの声は、冷静だった。

 

レッドキャップは、走らない。

跳ねもしない。

 

一歩。

重い音。

 

二歩。

橋が震える。

 

「踏み込みだけだ」

 

イェルグが距離を測る。

 

「避けるな。ずらせ」

 

三歩目で、レッドキャップが足を上げた。

 

叩きつけるためだ。

 

ルーネは、半歩だけ横に動く。

完全に避けない。

わざと、届く位置に残る。

 

鉄靴が、橋を打つ。

 

鈍い音。

石が、砕ける。

 

その瞬間、イェルグが動いた。

 

腰から、鉄の楔を抜く。

刃ではない。平たく、重い鉄。

 

「――今だ」

 

レッドキャップの足が、橋に沈み込む。

抜けない。

役割に縛られた動きは、修正が利かない。

 

イェルグは、石と石の継ぎ目に楔を当てた。

 

迷いはない。

叩き込む。

 

金属音が、霧の中に響く。

 

一度。

二度。

 

橋が、きしむ。

 

レッドキャップが、初めて声を上げた。

 

悲鳴ではない。

怒号でもない。

 

役割が壊されることへの、反応。

 

「……っ」

 

ルーネは、歯を食いしばる。

 

これは、救いではない。

交渉でもない。

 

基点を、壊しているだけだ。

 

三度目の打撃で、石がずれた。

 

それと同時に、赤い帽子の輪郭が揺らぐ。

 

足元から、崩れるように。

 

「下がれ」

 

イェルグが言う。

 

ルーネは、言われた通りに後退する。

 

レッドキャップは、追ってこない。

追えない。

 

橋の中央から、離れられない。

 

帽子が、石の上に落ちる。

 

中身はない。

 

鉄靴が、空を踏む。

 

次の瞬間、輪郭が崩壊した。

 

霧に溶けるように、消える。

音もなく。

 

静寂が戻る。

 

「……終わりですか」

 

ルーネが訊く。

 

「処理は完了だ」

 

イェルグは、楔を引き抜く。

 

「倒した、とは言わない」

 

橋の中央に、何もない。

だが、完全に“空”でもない。

 

役割の名残。

立ち止まる圧。

 

それは、薄く残っている。

 

「……助けなかった」

 

ルーネは、呟いた。

 

自責ではない。

確認だ。

 

「助ける対象じゃない」

 

イェルグは、淡々と返す。

 

「選べなかったものだ」

 

ルーネは、赤い帽子が落ちていた場所を見る。

 

拾わない。

持ち帰らない。

 

「……それでも」

 

言いかけて、やめた。

 

言葉にしてしまえば、

選ばなかった自分を、言い訳することになる。

 

二人は、橋を渡らなかった。

 

来た道を、引き返す。

 

背中に、視線を感じる気がしたが、

振り返らない。

 

「ルーネ」

 

橋を離れてから、イェルグが言った。

 

「覚えておけ」

 

「はい」

 

「救わないってのは、

 何もしないことじゃない」

 

ルーネは、頷いた。

 

壊すことも、

選ばないことも、

確かに“した”のだ。

 

それを、自覚したまま歩く。

 

それが、この仕事のやり方だった。

 

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