第六十七話 立ち止まるな
橋は、地図から消えた。
正確には、消された。
新しい地図には、川は描かれているが、渡河点がない。
道は、手前で途切れている。
「……ずいぶん、あっさりですね」
ルーネが、広げられた地図を見ながら言う。
宿屋の一階。
朝の光が、机の上を照らしている。
「紙の上では、こんなもんだ」
イェルグは、湯気の立つ杯を手にしている。
「橋は、最初から無かった。
怪異も、最初から居なかった」
「でも」
ルーネは、言葉を選ぶ。
「噂は、もう出てます」
街道沿いの村。
そこでは、旅人たちが小声で話している。
――赤い帽子を見ると、立ち止まりたくなる。
――橋の真ん中で、足が動かなくなる。
――無理に渡ろうとした奴は、戻ってこなかった。
「噂は消えない」
イェルグは、当然のことのように言う。
「消さない方がいい場合もある」
「避けるため、ですか」
「そうだ」
イェルグは、杯を置く。
「倒したのは、一体だけだ。
だが、“そうなる可能性”までは殺せない」
ルーネは、橋を思い出す。
赤い帽子。
鉄靴。
一歩ごとに重くなる空気。
「移動するレッドキャップも、いますよね」
「ああ」
イェルグは、肯定する。
「あれは、場所じゃなく、人についていく」
「救いを求めて」
「……そして、恨みも抱えている」
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
「今回のは」
ルーネが、静かに言う。
「倒せる側でした」
「そうだ」
「でも、全部がそうじゃない」
「そうだ」
確認するような会話だった。
窓の外で、馬車が通り過ぎる。
人は、今日も移動している。
「橋、閉鎖されるみたいですね」
「いずれ、完全に壊すだろう」
「それで、終わりになりますか」
イェルグは、少し考えてから答えた。
「橋は終わる」
「……怪異は?」
「名前を変える」
ルーネは、息を吐く。
「倒したのに」
「倒したからだ」
イェルグは、淡々と言う。
「形を失った概念は、
別の形を探す」
だから、完全な終わりはない。
宿を出る準備をする。
荷をまとめ、支払いを済ませる。
いつもと変わらない手順。
街道に出ると、子どもが一人、こちらを見ていた。
「ねえ」
声をかけられる。
「赤い帽子って、本当にいたの?」
ルーネは、一瞬だけ言葉に詰まる。
「……どう思う?」
子どもは、少し考える。
「いたら、怖い」
「そうだね」
ルーネは、優しく答える。
「だから、行かない方がいい場所もある」
子どもは、頷いて走り去る。
「それでいい」
イェルグが言う。
「怖いから避ける。
それが、一番確実だ」
街道を歩き出す。
背後に、橋はない。
振り返っても、見えない。
「……俺たちは、正しかったと思いますか」
ルーネが、ぽつりと聞く。
イェルグは、即答しなかった。
「正しいかどうかは、知らん」
やがて、そう言う。
「だが、必要だった」
「倒すことが?」
「選ばないことが、だ」
ルーネは、前を向く。
救わなかった。
選ばなかった。
それでも、歩き続ける。
「立ち止まるな」
イェルグの声は、低い。
「立ち止まると、
役割に捕まる」
ルーネは、頷いた。
赤い帽子は、もう見えない。
だが、旅人の噂の中で、生き続ける。
倒したが、消えてはいない。
それを知ったまま、
二人は次の街へ向かう。