検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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吐瀉

第六話 吐瀉

 

最初に異変が出たのは、

臭いだった。

 

「……甘い、です」

 

ルーネが言った。

 

声が、

少し上ずっている。

 

イェルグは、

遺体の胸部から視線を離さずに答える。

 

「腐臭ではありません」

 

「はい……」

 

「気にしなくていい。

 気にすると、

 脳が勝手に意味を足します」

 

留め草の効果が、

まだ効いている。

 

腐敗は、

意図的に遅らされていた。

 

だからこそ、

残るものがある。

 

イェルグは、

肋骨の内側を示した。

 

「ここを、

 見てください」

 

ルーネは、

一歩近づいた。

 

次の瞬間、

喉が鳴る。

 

「……っ」

 

「視線を逸らさない」

 

イェルグの声は、

低く、

淡々としていた。

 

「ここで目を逸らすと、

 次からは、

 何も見えなくなります」

 

「で、でも……」

 

「見てください」

 

逃げ場のない言葉だった。

 

ルーネは、

歯を食いしばり、

再び覗き込む。

 

肺の表面に、

薄い膜のようなものがある。

 

「……粘液?」

 

「ええ」

 

「病では?」

 

「違います」

 

イェルグは、

指先で距離を測るように、

宙をなぞった。

 

「これは、

 外から付着したものではない」

 

「……内側から?」

 

「吸い込まされています」

 

ルーネの顔色が、

一気に変わる。

 

「息、ですか」

 

「はい」

 

イェルグは、

遺体の口元を見る。

 

歯列に、

わずかな黒ずみ。

 

「毒ではない」

 

「でも……死んでいます」

 

「毒ではないから、

 死ぬまで時間がかかる」

 

その言葉が、

遅れて刺さった。

 

ルーネの喉が、

再び鳴る。

 

「……外、出てもいいですか」

 

「今ですか」

 

「……はい」

 

「どうぞ」

 

許可は、

あっさりと出た。

 

ルーネは、

走らなかった。

 

だが、

扉を出た瞬間。

 

乾いた音がして、

胃の中身を吐いた。

 

石床に、

音が響く。

 

イェルグは、

それを聞きながら、

帳面に一行書き足した。

 

――反応時間、

――遅延。

 

しばらくして、

足音が戻ってくる。

 

ルーネの顔は、

青白い。

 

だが、

目は逸らしていなかった。

 

「……すみません」

 

「正常です」

 

イェルグは言う。

 

「吐かなかったら、

 そちらの方が問題です」

 

「……」

 

「戻れますか」

 

ルーネは、

一瞬迷ってから、

頷いた。

 

イェルグは、

その選択を評価した。

 

 

「この魔物は、

 噛みません」

 

「……ヌック、ですね」

 

「ええ」

 

イェルグは、

遺体の腕を持ち上げる。

 

皮膚の下、

うっすらと浮かぶ変色。

 

「皮膚がない」

 

「……?」

 

「ヌックは、

 自分自身がそうです」

 

ルーネは、

息を詰めた。

 

「皮膚を持たない魔物は、

 他者の境界も壊す」

 

「境界……」

 

「皮膚は、

 外と内を分けるものです」

 

イェルグは、

淡々と続ける。

 

「ヌックは、

 それを持たない」

 

「だから……」

 

「息を、

 共有させる」

 

肺の膜を、

再び示す。

 

「これは、

 内と外が、

 混ざった痕跡です」

 

ルーネは、

震える指で、

帳面を取った。

 

「……書いていい、ですか」

 

「事実だけなら」

 

「解釈は……」

 

「後です」

 

イェルグは、

布を戻した。

 

「ヌックは、

 淡水を嫌います」

 

「……川」

 

「ええ」

 

「でも、

 この遺体は川の近くで……」

 

「だから、

 ここで止まっています」

 

ルーネは、

はっとした。

 

「……追われて、

 逃げて……」

 

「憶測です」

 

イェルグは、

即座に切った。

 

「ですが」

 

一拍。

 

「合理的ではあります」

 

その瞬間。

 

扉の外で、

衣擦れの音がした。

 

イェルグは、

顔を上げない。

 

だが、

分かっていた。

 

聞かれている。

 

「……ずいぶん、

 詳しいな」

 

声は、

廊下の奥からだった。

 

教会の聖職者。

最初に来た、

あの男。

 

「教えている、

 というより……」

 

言葉を探す。

 

「共有している、

 ように見える」

 

イェルグは、

ようやく振り返った。

 

「仕事です」

 

それだけだった。

 

男は、

一瞬だけ黙る。

 

そして、

小さく笑った。

 

「なるほど」

 

笑顔だったが、

目は笑っていない。

 

「報告書に、

 書いておこう」

 

それは、

宣言だった。

 

男が去った後、

ルーネは、

小さく言った。

 

「……怒られますか」

 

イェルグは、

遺体を見下ろしたまま、

答える。

 

「いいえ」

 

「では……」

 

「目を、

 つけられます」

 

ルーネは、

息を飲んだ。

 

「……それでも、

 教えてくれますか」

 

イェルグは、

少しだけ考えた。

 

そして。

 

「順番を守るなら」

 

そう言った。

 

死体は、

まだ、

ここにある。

 

だから、

教えるべきことも、

まだ、

終わっていない。

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