第六十九話 産婆の家
産婆の家は、村の端にあった。
道の終わりにぽつんと建っていて、裏手はすぐ森に続いている。
人の気配はあるのに、境界が曖昧な場所だった。
扉を開けた瞬間、ルーネは足を止めた。
「……匂いが、しませんね」
「何の?」
「血の」
イェルグは一歩遅れて中に入り、室内を見回した。
確かに、清潔だった。
掃除が行き届いている、という言葉では足りない。
布も床も、白に近い色を保っている。
産婆は年老いていた。
背は曲がり、手には皺が刻まれている。
それでも目だけは澄んでいて、訪問者を真っ直ぐに見返してきた。
「遠いところを」
声は穏やかで、警戒の色はない。
寝台が二つ。
どちらも整えられ、染み一つない。
出産を扱う家としては、不自然なほどだ。
「ここで、何人取り上げましたか」
ルーネが尋ねると、産婆は少し考えた。
「……もう、数えられませんね」
「数えない?」
「ええ。昔から、そうでしたから」
言い淀みはない。
言葉を選んでいる様子もない。
イェルグは壁に目をやった。
木目の流れが、途中で歪んでいる箇所がある。
補修の跡だ。
「ここ、壊れてたのか」
「埋めました」
産婆はあっさりと言った。
「胞衣です」
ルーネの視線が、壁に固定される。
「……埋める?」
「ええ。
持ち帰る方もいますが、
ここでは、そうしない方が多かった」
壁の内側。
人の生活空間の、すぐ裏。
「供養、ですか」
「そうですね」
産婆は微笑んだ。
「名前を持たないものは、
せめて、忘れられないように」
ルーネは何も言えなかった。
供養という言葉は、死を前提とする。
だが、彼が見てきた記録には、死がない。
「産めない人も、産みたくない人も」
産婆は静かに続けた。
「ここでは、守られてきました」
責める調子ではない。
誇るようでもない。
事実として語っているだけだ。
「この村は、そういう場所です」
イェルグは煙草に火をつけなかった。
火を点ける気分ではなかった。
「……それで、増えなかったんだな」
産婆は首を振らない。
肯定もしない。
ただ、視線を落とした。
「増やすための村じゃ、ありませんでしたから」
夜になって、家を辞する前、
ルーネはもう一度寝台を見た。
布をめくる。
下に、防水のための厚い布が敷かれている。
だが、それも新しい。
「頻繁に替えてますね」
「ええ」
「血が残らないように?」
産婆は一瞬だけ、黙った。
「……残ると、いけませんから」
何が、とは言わない。
家を出たあと、森から風が吹いた。
湿った匂いが、かすかに混じる。
「善人だな」
イェルグが言った。
「はい」
ルーネも否定しない。
「村を支えてきた人です。
救った人も、たくさんいる」
「それでも」
イェルグは言葉を切った。
「何かが、ここに溜まってる」
宿に戻ると、夜は深かった。
灯りを落としても、ルーネは眠れなかった。
床の下。
また、音がする。
呼吸に似ている。
あるいは、何かを耐えている音。
彼は目を閉じる。
ここには、悪意がない。
加害者もいない。
あるのは、
選び続けた結果だけだ。
数えなかった。
記録しなかった。
名前を与えなかった。
それだけで、
これだけの“場所”ができてしまう。
「……職業柄、最悪ですね」
小さく呟いて、ルーネは天井を見た。
これはまだ、死ですらない。
ただ、扱われなかったものだ。
そして、
扱われなかったものは、
いつか、形を持つ。