検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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名を持たないもの

第七十一話 名を持たないもの

 

村の古文書は、役場の裏手、使われなくなった部屋にまとめられていた。

湿気を吸った紙の匂いが、部屋に満ちている。

 

「……随分、残ってますね」

 

ルーネがそう言うと、イェルグは肩をすくめた。

 

「捨てる理由がなかっただけだ。

 必要かどうかとは、別の話だ」

 

書棚から一束を抜き取り、無造作に机へ置く。

扱いは雑だが、どこを見ればいいかは迷っていない。

 

「この辺りだ」

 

ルーネはページをめくり、眉をひそめた。

 

出生記録。

年ごとに、淡々と並ぶ数字。

だが、名前の欄が途中から空白になっている。

 

「……これ」

 

「気づいたか」

 

イェルグは言った。

 

「ここから先、“人”として扱われなくなってる」

 

ルーネは文書を追う。

書式が変わっているわけではない。

書き手も同じだ。

 

ただ、書かれなくなっている。

 

「書き忘れ、ではなさそうですね」

 

「忘れていい、と決まった」

 

ルーネは顔を上げる。

 

「決まった?」

 

「制度だ」

 

イェルグは、別の文書を開いた。

そこには、より露骨な言葉が並んでいる。

 

——出生制限に関する指針。

——労働人口の維持。

——不妊者の管理。

 

「……管理」

 

ルーネが呟く。

 

「産むことも、産まないことも、

 選択じゃなかった時代がある」

 

イェルグの声は低い。

 

「この村は、特別じゃない。

 どこにでもあった」

 

ルーネは、喉の奥が乾くのを感じた。

 

「じゃあ、名前がないのは……」

 

「残ると決まったものにだけ、与えた」

 

イェルグは簡潔に言った。

 

「生き残る保証がない段階で、

 数に入れなかった」

 

「……命なのに」

 

「命だったからだ」

 

イェルグは文書を閉じる。

 

「数は管理できる。

 個体は管理できない」

 

ルーネは、地下で見た膜を思い出した。

脈打つ赤黒い空間。

個体になりきれなかった影。

 

「あれは……」

 

「余りだ」

 

イェルグは即答した。

 

「社会の中で、

 数えられなかったものの行き場」

 

ルーネは息を詰めた。

 

「誰かが、作ったわけじゃないんですね」

 

「そうだ」

 

イェルグは肯定する。

 

「だが、誰の責任でもない、という話でもない」

 

再び地下へ降りる。

巣は、変わらずそこにある。

 

ルーネは、前よりも冷静に観察できた。

恐怖は薄れ、その代わり、理解が入り込んでくる。

 

「……寄生、ですね」

 

「気づかれにくい」

 

イェルグは補足する。

 

「宿主の内側で育つ。

 未成熟な生命を喰って、な」

 

「成熟すると?」

 

「壊す。

 内側から」

 

ルーネは目を伏せた。

 

「討伐、対象ですか」

 

「理屈の上ではな」

 

イェルグは、しばらく沈黙したあと、言った。

 

「だが、教会は嫌う」

 

「なぜ」

 

「名前を与えることになるからだ」

 

ルーネは、はっとする。

 

「……名前」

 

「そうだ」

 

イェルグは巣を見据える。

 

「名前を与えた瞬間、

 それは“存在”になる」

 

ルーネは、静かに問う。

 

「この怪異の名前は」

 

イェルグは一拍置いた。

 

「胎喰らい(ブロッド・ネスト)」

 

言葉が、空間に落ちる。

巣が、わずかに脈打った。

 

「喰うのは、命そのものじゃない」

 

イェルグは続ける。

 

「“生まれるはずだった可能性”だ」

 

ルーネは、胸の奥に重たいものが沈むのを感じた。

 

「……罰じゃ、ないんですね」

 

「違う」

 

イェルグは即答した。

 

「結果だ。

 そういう社会があった、その結果」

 

だから、倒しても終わらない。

だから、救っても消えない。

 

「教会が、討伐を出さない理由が……」

 

「分かったか」

 

ルーネは、ゆっくりと頷いた。

 

「これは、触れた時点で、

 こちらが“認める側”になる」

 

イェルグは、それ以上言わなかった。

 

巣は、今日も静かに呼吸している。

名を持たず、

数にも入らず、

それでも、ここにある。

 

ルーネは思った。

 

理解してしまったからといって、

救えるわけではない。

 

ただ、

もう見なかったことにはできないだけだ。

 

 

 

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