検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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検死官の限界

第七十三話 検死官の限界

 

夜明け前、ルーネは一人で地下に降りていた。

イェルグには告げていない。

告げる必要がない、と判断されたことが、逆に重かった。

 

ランタンの光が、赤黒い膜を照らす。

巣は、変わらずそこにある。

呼吸のような動き。

昨日と同じ。

何も変わっていない。

 

——変わったのは、自分の側だ。

 

「……記録、か」

 

ルーネは独り言のように呟いた。

教会の命令。

記録を破棄せよ。

深入りするな。

 

検死官として、その言葉は致命的だった。

 

彼の仕事は、

死を確定させることだ。

死因を特定し、時刻を定め、

「ここで終わった」と線を引く。

 

だが、ここには終わりがない。

 

死体がない。

損壊がない。

死が、成立していない。

 

「……じゃあ、これは何だ」

 

巣に問いかけても、返事はない。

ただ、脈打つ。

 

生きている、と言うには違う。

死んでいる、と言うには、あまりに動いている。

 

「死じゃない……」

 

声に出して、はっきりと理解した。

 

「無かったこと、なんだ」

 

記録されなかった。

数えられなかった。

名前を持たなかった。

 

だから、死ねなかった。

 

ルーネの脳裏に、帳簿の空白が浮かぶ。

名前欄。

何も書かれていない、あの空白。

 

「……名前があれば」

 

思わず、そう考えてしまう。

 

名前があれば、個体になる。

個体になれば、死ねる。

死ねれば、弔える。

 

だが、イェルグの言葉が、すぐにそれを否定した。

 

——名前を与えた瞬間、存在を認めることになる。

 

「……っ」

 

ランタンを持つ手が、僅かに震えた。

 

認めたら、何が起きる。

この巣が生まれた理由を。

この社会の選択を。

見なかったことにしてきた責任を。

 

「それは……」

 

検死官の仕事じゃない。

それは、世界の仕事だ。

 

だが、世界はそれを拒否した。

 

「だから、避ける……か」

 

イェルグの言葉は、正しい。

長く生き延びるための選択だ。

 

それでも。

 

「……救い、ないじゃないですか」

 

巣は、答えない。

 

救いを求めているのかどうかすら、分からない。

それが、いちばん苦しかった。

 

相手が憎めない。

恨めない。

殺意を向けることもできない。

 

ただ、存在している。

 

「……検死官、向いてないな」

 

自嘲気味に呟く。

 

死を前にしたとき、

ルーネは冷静でいられた。

死体は嘘をつかない。

向き合えば、必ず答えがある。

 

だが、これは違う。

 

答えが、用意されていない。

 

「終わらせられない」

 

それが、職業的敗北だった。

 

巣の膜に、影が浮かぶ。

人の形に近い、曖昧な輪郭。

 

——もし、ここに手を突っ込めば。

 

壊せる部分は、ある。

末端なら、処理できる。

イェルグは、そう言っていた。

 

だが、それは救いじゃない。

一部を壊して、全体を残す。

ただ、形を変えるだけだ。

 

「……分かってますよ」

 

誰に向けてでもなく、呟く。

 

「師匠の言ってることは、正しい」

 

だからこそ、辛い。

 

知ってしまった。

理解してしまった。

なのに、何もできない。

 

ルーネは、膝をついた。

土の冷たさが、掌に伝わる。

 

「……死因不明、じゃない」

 

紙に書けない言葉が、胸に溜まる。

 

「死因不在」

 

そんな項目は、存在しない。

 

検死官の仕事は、

世界が理解できる形に、死を翻訳することだ。

 

だが、これは翻訳不能だ。

 

「……教会は、正しい」

 

ぽつりと、そう思ってしまった自分に、

ルーネは軽い嫌悪を覚えた。

 

正しいから、切り捨てる。

正しいから、触れない。

正しいから、なかったことにする。

 

それが、世界のやり方だ。

 

ランタンの灯が揺れる。

巣も、それに合わせて、わずかに動いた。

 

「……せめて」

 

ルーネは立ち上がり、

最後に一度だけ、巣を見た。

 

「あなたを、見たってことだけは」

 

記録に残さない。

報告もしない。

名前も与えない。

 

それでも、見た。

 

理解した。

忘れない。

 

それだけが、彼に許された、唯一の抵抗だった。

 

地上に戻ると、空が白み始めていた。

村は、いつも通り静かだ。

 

子どもの声は、しない。

 

ルーネは思う。

 

倒せない怪異がいる。

避けるしかない怪異がいる。

 

そして、

救えないと分かっていても、見てしまう人間がいる。

 

検死官とは、

そういう役回りなのかもしれない。

 

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