検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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選択

第七十五話 選択

 

撤退を決めたのは、夜明け前だった。

 

霧が低く垂れこめ、村の輪郭を曖昧にしている。

昨日まで“問題”だった場所が、今はただの地面に見えた。

 

イェルグは地図を畳み、無言で荷をまとめている。

その動きに、迷いはなかった。

 

「……もう、行くんですか」

 

ルーネの声は、自分でも驚くほど掠れていた。

 

「夜が明ける前にな」

 

イェルグは顔を上げない。

 

「村の人には?」

 

「何も言わない」

 

「……巣は、まだ」

 

「残ってる」

 

それを、あまりに当然のこととして言う。

 

ルーネは一歩踏み出した。

 

「焼きませんか」

 

イェルグの手が、止まる。

 

「地下ごと、村ごと。

 そうすれば……」

 

言葉が続かない。

自分で言っていて、胸の奥が冷える。

 

イェルグは、ゆっくりと振り返った。

 

「焼けば、巣は死ぬ」

 

「……」

 

「同時に、ここにいる人間も終わる」

 

ルーネは唇を噛んだ。

 

「でも……あれは」

 

「怪異だ」

 

「……はい」

 

「だが、

 “敵”じゃない」

 

その言い方が、ルーネを苛立たせた。

 

「じゃあ、何なんですか!」

 

声が大きくなったのを、自覚していた。

それでも止まらない。

 

「このまま放っておけば、

 また何かが起きるかもしれない!」

 

「起きるだろうな」

 

イェルグは否定しない。

 

「……なのに」

 

「それでも、焼かない」

 

ルーネは、理解できなかった。

 

「なぜですか」

 

問いというより、詰問だった。

 

イェルグは、少し考えてから答えた。

 

「理由は三つある」

 

指を一本立てる。

 

「一つ。

 これは、教会案件だ」

 

「……でも、命令は」

 

「出ていない」

 

二本目。

 

「二つ。

 完全破壊は、

 “選択”ではなく“断罪”になる」

 

「……」

 

「俺たちに、

 そこまでの権限はない」

 

三本目。

 

「三つ」

 

少し、間が空いた。

 

「焼けば、

 “なかったこと”にできなくなる」

 

ルーネは、息を呑んだ。

 

「……なかったこと、に?」

 

「ああ」

 

イェルグは言う。

 

「痕跡が残る。

 責任が生まれる。

 問いが発生する」

 

「それは……悪いことじゃ」

 

「教会にとっては、悪い」

 

その一言で、すべてが繋がった。

 

「だから、

 曖昧にする」

 

イェルグは地図を指で叩く。

 

「村は記録から消える。

 報告は濁す。

 怪異は、

 “扱われなかった案件”になる」

 

「……逃げる、んですか」

 

ルーネは、思わずそう言った。

 

イェルグは、怒らなかった。

 

「逃げだ」

 

はっきりと認める。

 

「だが、

 逃げることが最善な場合もある」

 

「……それで、いいんですか」

 

ルーネの声は、震えていた。

 

「いいかどうかじゃない」

 

イェルグは、静かに言う。

 

「選んだ、という事実だけが残る」

 

沈黙。

 

村の方から、微かな物音がする。

朝の支度だ。

何も知らない人々が、今日を始めている。

 

「……僕は」

 

ルーネは、拳を握った。

 

「納得してません」

 

「だろうな」

 

「このままじゃ、

 あれは……」

 

「救われない」

 

イェルグは、被せるように言う。

 

「最初からだ」

 

ルーネは、言葉を失った。

 

救えなかった。

倒しきれなかった。

壊しきれなかった。

 

それでも、

選んでしまった。

 

「覚えておけ」

 

イェルグは、荷を背負う。

 

「怪異の中には、

 倒すことで終わるものと、

 触れないことで終わらせるものがある」

 

「……」

 

「これは後者だ」

 

歩き出す背中を、ルーネは見つめる。

 

師匠。

先生。

知識を与える側。

 

その背中は、

正しさよりも、

現実を選んでいた。

 

「……」

 

ルーネは、村を振り返った。

 

静かだ。

あまりに、普通だ。

 

だからこそ、

胸の奥に、

気持ちの悪い何かが残る。

 

彼らは去る。

火も、剣も、

答えも置かずに。

 

残るのは、

壊れかけの巣と、

数えられなかったものたち。

 

そして、

それをなかったことにするという選択。

 

ルーネは歩きながら、思う。

 

この仕事は、

世界を正しくするためじゃない。

 

世界を、壊さずに保つためのものだ。

 

それが、

こんなにも、

気持ち悪い。

 

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