検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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なかったことにする

第七十六話 なかったことにする

 

教会の書式は、いつも同じだ。

 

余白の幅。

文字の大きさ。

問いの順番。

 

そこに感情が入り込む余地は、最初から用意されていない。

 

⸻

 

調査報告書(抜粋)

担当:検死官 イェルグ

同行:検死官 ルーネ

 

案件番号:欠番

発生地:該当なし

事案概要:記録不全による人口齟齬の確認

 

対応結果:

・実地確認

・異常兆候なし

・継続調査不要

 

備考:

特記事項なし

 

⸻

 

ルーネは、その紙を見つめていた。

 

「……これで、終わりなんですか」

 

「終わりだ」

 

イェルグは羽根ペンを置く。

 

「終わったことにする」

 

教会の執務室は、石造りで冷たい。

外光は高窓からしか入らず、時間の感覚が曖昧になる。

 

「でも……」

 

ルーネは言葉を探す。

 

「地下に、あれだけの――」

 

「書くな」

 

イェルグの声は低い。

 

「書いた瞬間、

 それは“存在した”ことになる」

 

ルーネは、理解してしまった自分が嫌だった。

 

「……じゃあ、あの村は」

 

「地図から消える」

 

机の上に、新しい地図が広げられる。

そこには、あの村の名前がない。

 

「元から、

 通過点にもならない場所だった」

 

「……人は?」

 

「記録上は、

 最初から“いなかった”」

 

軽い調子で言われるそれが、

ひどく重く感じられる。

 

「村はどうなるんです」

 

「静かに、衰退する」

 

イェルグは言う。

 

「出産は止まった。

 若い者は去る。

 老人は減る」

 

「……」

 

「数十年もすれば、

 誰もいなくなる」

 

それは、処刑ではない。

追放でもない。

 

ただの、

放置だ。

 

「怪異は?」

 

「残る」

 

はっきりと。

 

「だが、

 触れられないものになる」

 

ルーネは、胸の奥がざらつくのを感じた。

 

「それって……」

 

「安全じゃ」

 

イェルグは、首を振る。

 

「安全じゃない」

 

「じゃあ、なぜ」

 

「危険を認識すること自体が、

 危険な場合もある」

 

教会は、

世界を守る組織ではない。

 

世界を“管理可能な範囲”に保つ組織だ。

 

「……」

 

ルーネは、別の書類に目を落とす。

 

そこには、

“検死所見欄”があった。

 

だが、

すべてが空白だ。

 

「……書けません」

 

「書くな」

 

「でも、僕は検死官です」

 

イェルグは、少しだけ目を細めた。

 

「だからだ」

 

「……?」

 

「死体がない死を、

 お前は初めて見た」

 

ルーネの喉が鳴る。

 

「これは、

 “死”じゃない」

 

イェルグは続ける。

 

「存在が、

 数に入らなかっただけだ」

 

「……そんなの」

 

「世界は、

 それを許してきた」

 

ルーネは、思い出す。

 

名前のない出産記録。

空白のままの名簿。

異様に低い乳児死亡率。

 

死んでいない。

生きてもいない。

 

「……」

 

「覚えておけ、ルーネ」

 

イェルグは、書類を綴じる。

 

「教会の仕事は、

 真実を書くことじゃない」

 

「……」

 

「“扱える形”にすることだ」

 

その日のうちに、

報告は受理された。

 

却下も、質問もない。

 

ただ一つ、

朱印が押される。

 

処理完了。

 

⸻

 

数年後。

 

地図は更新される。

街道は引き直され、

空白だった場所は、

ただの森になる。

 

旅人は、

道に迷うこともなくなる。

 

噂だけが残る。

 

「昔、あそこに村があったらしい」

「子供が生まれない土地だった」

「夜、変な音がした」

 

誰も確かめに行かない。

 

名前がない場所は、

目的地にならないからだ。

 

⸻

 

ルーネは、教会の回廊を歩きながら思う。

 

自分は、

正しいことをしたのだろうか。

 

救っていない。

倒していない。

暴いてもいない。

 

ただ、

なかったことにした。

 

それが、

一番、

気持ちが悪い。

 

イェルグの背中は、

今日も迷いがない。

 

それが、

この仕事を続けられる理由なのだと、

ルーネは理解してしまう。

 

理解してしまったことが、

何よりの敗北だった。

 

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