第七十六話 なかったことにする
教会の書式は、いつも同じだ。
余白の幅。
文字の大きさ。
問いの順番。
そこに感情が入り込む余地は、最初から用意されていない。
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調査報告書(抜粋)
担当:検死官 イェルグ
同行:検死官 ルーネ
案件番号:欠番
発生地:該当なし
事案概要:記録不全による人口齟齬の確認
対応結果:
・実地確認
・異常兆候なし
・継続調査不要
備考:
特記事項なし
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ルーネは、その紙を見つめていた。
「……これで、終わりなんですか」
「終わりだ」
イェルグは羽根ペンを置く。
「終わったことにする」
教会の執務室は、石造りで冷たい。
外光は高窓からしか入らず、時間の感覚が曖昧になる。
「でも……」
ルーネは言葉を探す。
「地下に、あれだけの――」
「書くな」
イェルグの声は低い。
「書いた瞬間、
それは“存在した”ことになる」
ルーネは、理解してしまった自分が嫌だった。
「……じゃあ、あの村は」
「地図から消える」
机の上に、新しい地図が広げられる。
そこには、あの村の名前がない。
「元から、
通過点にもならない場所だった」
「……人は?」
「記録上は、
最初から“いなかった”」
軽い調子で言われるそれが、
ひどく重く感じられる。
「村はどうなるんです」
「静かに、衰退する」
イェルグは言う。
「出産は止まった。
若い者は去る。
老人は減る」
「……」
「数十年もすれば、
誰もいなくなる」
それは、処刑ではない。
追放でもない。
ただの、
放置だ。
「怪異は?」
「残る」
はっきりと。
「だが、
触れられないものになる」
ルーネは、胸の奥がざらつくのを感じた。
「それって……」
「安全じゃ」
イェルグは、首を振る。
「安全じゃない」
「じゃあ、なぜ」
「危険を認識すること自体が、
危険な場合もある」
教会は、
世界を守る組織ではない。
世界を“管理可能な範囲”に保つ組織だ。
「……」
ルーネは、別の書類に目を落とす。
そこには、
“検死所見欄”があった。
だが、
すべてが空白だ。
「……書けません」
「書くな」
「でも、僕は検死官です」
イェルグは、少しだけ目を細めた。
「だからだ」
「……?」
「死体がない死を、
お前は初めて見た」
ルーネの喉が鳴る。
「これは、
“死”じゃない」
イェルグは続ける。
「存在が、
数に入らなかっただけだ」
「……そんなの」
「世界は、
それを許してきた」
ルーネは、思い出す。
名前のない出産記録。
空白のままの名簿。
異様に低い乳児死亡率。
死んでいない。
生きてもいない。
「……」
「覚えておけ、ルーネ」
イェルグは、書類を綴じる。
「教会の仕事は、
真実を書くことじゃない」
「……」
「“扱える形”にすることだ」
その日のうちに、
報告は受理された。
却下も、質問もない。
ただ一つ、
朱印が押される。
処理完了。
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数年後。
地図は更新される。
街道は引き直され、
空白だった場所は、
ただの森になる。
旅人は、
道に迷うこともなくなる。
噂だけが残る。
「昔、あそこに村があったらしい」
「子供が生まれない土地だった」
「夜、変な音がした」
誰も確かめに行かない。
名前がない場所は、
目的地にならないからだ。
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ルーネは、教会の回廊を歩きながら思う。
自分は、
正しいことをしたのだろうか。
救っていない。
倒していない。
暴いてもいない。
ただ、
なかったことにした。
それが、
一番、
気持ちが悪い。
イェルグの背中は、
今日も迷いがない。
それが、
この仕事を続けられる理由なのだと、
ルーネは理解してしまう。
理解してしまったことが、
何よりの敗北だった。