検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

77 / 131
なかったことにする

第七十六話 なかったことにする

 

教会の書式は、いつも同じだ。

 

余白の幅。

文字の大きさ。

問いの順番。

 

そこに感情が入り込む余地は、最初から用意されていない。

 

 

調査報告書(抜粋)

担当:検死官 イェルグ

同行:検死官 ルーネ

 

案件番号:欠番

発生地:該当なし

事案概要:記録不全による人口齟齬の確認

 

対応結果:

・実地確認

・異常兆候なし

・継続調査不要

 

備考:

特記事項なし

 

 

ルーネは、その紙を見つめていた。

 

「……これで、終わりなんですか」

 

「終わりだ」

 

イェルグは羽根ペンを置く。

 

「終わったことにする」

 

教会の執務室は、石造りで冷たい。

外光は高窓からしか入らず、時間の感覚が曖昧になる。

 

「でも……」

 

ルーネは言葉を探す。

 

「地下に、あれだけの――」

 

「書くな」

 

イェルグの声は低い。

 

「書いた瞬間、

 それは“存在した”ことになる」

 

ルーネは、理解してしまった自分が嫌だった。

 

「……じゃあ、あの村は」

 

「地図から消える」

 

机の上に、新しい地図が広げられる。

そこには、あの村の名前がない。

 

「元から、

 通過点にもならない場所だった」

 

「……人は?」

 

「記録上は、

 最初から“いなかった”」

 

軽い調子で言われるそれが、

ひどく重く感じられる。

 

「村はどうなるんです」

 

「静かに、衰退する」

 

イェルグは言う。

 

「出産は止まった。

 若い者は去る。

 老人は減る」

 

「……」

 

「数十年もすれば、

 誰もいなくなる」

 

それは、処刑ではない。

追放でもない。

 

ただの、

放置だ。

 

「怪異は?」

 

「残る」

 

はっきりと。

 

「だが、

 触れられないものになる」

 

ルーネは、胸の奥がざらつくのを感じた。

 

「それって……」

 

「安全じゃ」

 

イェルグは、首を振る。

 

「安全じゃない」

 

「じゃあ、なぜ」

 

「危険を認識すること自体が、

 危険な場合もある」

 

教会は、

世界を守る組織ではない。

 

世界を“管理可能な範囲”に保つ組織だ。

 

「……」

 

ルーネは、別の書類に目を落とす。

 

そこには、

“検死所見欄”があった。

 

だが、

すべてが空白だ。

 

「……書けません」

 

「書くな」

 

「でも、僕は検死官です」

 

イェルグは、少しだけ目を細めた。

 

「だからだ」

 

「……?」

 

「死体がない死を、

 お前は初めて見た」

 

ルーネの喉が鳴る。

 

「これは、

 “死”じゃない」

 

イェルグは続ける。

 

「存在が、

 数に入らなかっただけだ」

 

「……そんなの」

 

「世界は、

 それを許してきた」

 

ルーネは、思い出す。

 

名前のない出産記録。

空白のままの名簿。

異様に低い乳児死亡率。

 

死んでいない。

生きてもいない。

 

「……」

 

「覚えておけ、ルーネ」

 

イェルグは、書類を綴じる。

 

「教会の仕事は、

 真実を書くことじゃない」

 

「……」

 

「“扱える形”にすることだ」

 

その日のうちに、

報告は受理された。

 

却下も、質問もない。

 

ただ一つ、

朱印が押される。

 

処理完了。

 

 

数年後。

 

地図は更新される。

街道は引き直され、

空白だった場所は、

ただの森になる。

 

旅人は、

道に迷うこともなくなる。

 

噂だけが残る。

 

「昔、あそこに村があったらしい」

「子供が生まれない土地だった」

「夜、変な音がした」

 

誰も確かめに行かない。

 

名前がない場所は、

目的地にならないからだ。

 

 

ルーネは、教会の回廊を歩きながら思う。

 

自分は、

正しいことをしたのだろうか。

 

救っていない。

倒していない。

暴いてもいない。

 

ただ、

なかったことにした。

 

それが、

一番、

気持ちが悪い。

 

イェルグの背中は、

今日も迷いがない。

 

それが、

この仕事を続けられる理由なのだと、

ルーネは理解してしまう。

 

理解してしまったことが、

何よりの敗北だった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。