第七十七話 名前を与えない
夜は、思ったより静かだった。
村の端に張った簡素な野営地。
焚き火は小さく、火の粉はすぐ闇に吸われる。
遠くで、何かが鳴った気がした。
風か、獣か、あるいは――。
ルーネは、耳を澄ませてから首を振った。
確かめに行く理由は、もうない。
「……本当に、行くんですね」
イェルグは、革袋の口を締めながら答えた。
「夜明け前に出る」
「村は」
「ここに残る」
それ以上でも、それ以下でもない言い方。
ルーネは、火を見つめたまま言った。
「……あれに、名前はあるんですよね」
イェルグの手が、一瞬止まる。
「学術的には、ある」
「でも、報告書には書かなかった」
「ああ」
ルーネは息を吸う。
「名前をつけたら……
人になる気がします」
言ってから、
自分でも驚くほど、その言葉は自然だった。
イェルグは、すぐには答えなかった。
焚き火が、薪を噛む音だけが続く。
「……だからだ」
やがて、彼は言った。
「だから、名前をやらない」
ルーネは顔を上げる。
「でも、理解はしましたよね」
「ああ」
「じゃあ、それで十分じゃないですか」
「違う」
イェルグは、はっきりと言った。
「理解と承認は、別だ」
「……」
「名前は、
世界に迎え入れるためのものだ」
ルーネの胸が、わずかに痛む。
「迎え入れなかったから、
ああなったのに」
「だからこそ、だ」
イェルグは続ける。
「今さら迎え入れるのは、
責任の取り方として、遅すぎる」
その言葉は、
どこか冷酷で、
同時に誠実だった。
「救いは、
後出しじゃ成立しない」
ルーネは、何も言えなくなる。
あの地下。
赤黒い膜。
形を持たなかった“巣”。
壊せた繭。
壊せなかった全体。
救ったつもりで、
同時に壊したもの。
「……教会は、正しいんですか」
問いは、弱かった。
「正しくない」
即答だった。
「だが、
間違いを最小限にする組織だ」
「最小限……」
「全部を救おうとするより、
全部を壊さない方を選ぶ」
ルーネは思う。
それは、
優しさなのか。
怠慢なのか。
たぶん、
どちらでもない。
「……僕は」
ルーネは、言葉を探す。
「検死官として、
何も書けませんでした」
「それでいい」
「職業的に、
負けた気がします」
イェルグは、少しだけ笑った。
「負けを知ったなら、
まだ続けられる」
「……」
「勝ち続ける奴は、
いずれ全部を壊す」
その夜、
二人は多くを話さなかった。
必要なことは、
もう言い尽くされていた。
⸻
夜明け前。
村を振り返る。
家々は静まり返り、
煙も上がらない。
もう、
“生まれる音”はしない。
それが、
救いなのか、
終わりなのか。
ルーネには、
まだ決められない。
「行くぞ」
イェルグが言う。
「……はい」
歩き出す前に、
ルーネは一度だけ、
小さく呟いた。
「……さよなら」
誰に向けた言葉かは、
自分でも分からない。
イェルグは、何も言わなかった。
⸻
後に残ったものは、
記録されない。
地図に載らない。
名前を持たない。
だが、
消えてはいない。
胎喰らいは、
倒されなかった。
救われなかった。
裁かれもしなかった。
ただ、
理解された。
それ以上のことを、
人間は、
してはいけなかった。
数えられなかったものたちは、
今も、
どこかで息を潜めている。
それを見ないと決めた世界だけが、
前へ進む。
――それが、
人間の選択だ。