話せる怪異
第七十八話 話せる怪異
村は静かだった。
音がないわけじゃない。風が吹き、家畜が鳴き、遠くで鍬が土を割る音もする。ただ、それらがどれも必要最低限で、余分な揺らぎを持たない。人の気配だけが、薄い。
イェルグは村に入るなり足を止めた。
立ち止まった理由が分からず、ルーネは半歩遅れて同じように止まる。
「覚えておけ」
低い声だった。説明ではなく、注意だ。
「こういう村は、騒ぎが終わった後だ」
「……終わった?」
ルーネが聞き返すと、イェルグは振り向かない。
「終わったか、終わらせたか。どっちにしろ、もう大声は出ない」
検死官として村に呼ばれた。
死者が出た、とだけ聞いている。だが、村人は誰も泣いていなかった。葬列もない。黒布もない。死の匂いがしない。
家の一軒に案内される。
寝台の上に、布が畳まれているだけだった。
「……遺体は?」
ルーネの問いに、村長が困ったように視線を逸らす。
「亡くなったのは……その、確かに亡くなったんですが……」
イェルグが一歩前に出る。
「“衰弱死”だな?」
村長は、ほっとしたように何度も頷いた。
「はい、その、そうです。衰弱して……眠るように」
イェルグは布に触れなかった。
代わりに、部屋の隅、床、壁、天井を順に見回す。
「ルーネ。ここに“死体があった”と思うか?」
急に振られて、言葉に詰まる。
血の跡はない。争った形跡もない。だが――
「……人が、ここで“生きていた”感じはあります」
「正解だ」
イェルグは短く言った。
「死んだ感じがない。だから、死体がない」
意味が分からないまま、ルーネは黙る。
イェルグは続けた。
「村人が言う“衰弱”は、原因じゃない。結果だ。問題は、何が削ったかだ」
外に出ると、子供がいた。
家の前に座り、土をいじっている。年の頃は六つか七つ。小さな手で、何かを丸めては壊す。
子供は二人を見上げ、にこりと笑った。
「ねえ」
それだけ言った。
ルーネは思わず返事をしかけて、喉で止めた。
イェルグが、ほんのわずか首を振っていたからだ。
子供は気にしない。立ち上がり、二人に近づく。
「だいじょうぶ。ここ」
言葉は整っていない。
だが、声音は柔らかく、懐かしさを含んでいる。胸の奥を撫でるような響き。
ルーネは、なぜか母の声を思い出した。
「……あの子は?」
小声で尋ねる。
「問題の中心だ」
イェルグは淡々と答えた。
「話せるからって、理解してると思うな」
子供はイェルグの外套の裾を掴もうとした。
触れる直前で、イェルグが半歩下がる。
「触るな」
子供は首を傾げる。
「……いっしょ」
その言葉を聞いた瞬間、空気が重くなった。
胸の奥に、理由の分からない罪悪感が滲む。
「ルーネ」
イェルグは子供から目を離さず言った。
「こいつは人語を“使ってる”ように見える。でも実際は違う」
「……違う?」
「意味を分かってない。言葉を、音と感情として反射してるだけだ」
子供が、今度はルーネを見る。
「すき」
短く、はっきりと。
心臓が跳ねた。
答えなければいけない気がした。否定してはいけない気がした。
「返すな」
イェルグの声が鋭くなる。
「返事は、餌だ」
ルーネは歯を食いしばる。
ただの子供にしか見えない。笑っている。泣いてもいない。剣を向ける理由が、どこにもない。
「……じゃあ、どうすれば」
「観察する。記録する。理解した気になるな」
子供は、二人の沈黙を気にせず、同じ言葉を繰り返す。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
その優しさが、この村を削った。
それを、ルーネはまだ言葉にできない。
イェルグは最後に一つだけ言った。
「検死官の仕事は、死体を見ることじゃない。“死が起きた構造”を見ることだ」
ルーネは頷いた。
そして気づく。
この村には、
死んだ人間より、
死なせ続けている何かがいる。
それが、笑っている。