第七話 淡水
川は、
境界としては曖昧だった。
幅は狭く、
飛び越えようと思えば越えられる。
だが、底は深く、
水は冷たい。
「……ここを、
渡らなかったんですね」
ルーネが言った。
声は、
まだ少し掠れている。
「渡れなかった、
の方が正確です」
イェルグは、
川面から視線を外さない。
淡水は、
澄んでいる。
だが、
その澄み方は、
何かを拒んでいるようにも見えた。
「ヌックは、
淡水を嫌う」
「皮膚がない、
から……」
「ええ」
イェルグは、
膝をつき、
川辺の土を指で掬った。
「嫌う、
というより……」
指先を、
水に触れさせる。
「耐えられない」
水が、
わずかに波打つ。
「皮膚がないというのは、
防げないということです」
「刺激を……」
「すべて、
直接受ける」
イェルグは、
指を引き上げ、
布で拭いた。
「この川は、
境界として機能しています」
「だから、
ここで……」
「止まる」
ルーネは、
帳面を開いた。
だが、
すぐには書かなかった。
「……足跡が、
ありません」
「ええ」
イェルグは、
川沿いに歩き始める。
「ヌックは、
歩きません」
「……引きずる?」
「ええ。
それも、
人のものではない」
しばらく歩いて、
イェルグは立ち止まった。
川岸の草が、
不自然に倒れている。
「ここです」
「……でも、
血が……」
「出ません」
イェルグは、
即答する。
「皮膚がない魔物は、
血を外に残さない」
「……」
「境界の内側に、
引き込む」
ルーネは、
喉を鳴らした。
「……だから、
遺体に、
外傷がなかった」
「ええ」
イェルグは、
川向こうを見た。
「ここから先は、
安全です」
「どうして、
分かるんですか」
「越えていないから」
「……」
「淡水は、
追ってこない」
ルーネは、
川を見下ろした。
「……でも、
殺しきれなかった、
可能性は?」
「あります」
イェルグは、
否定しない。
「ヌックは、
しつこい」
「……」
「そして、
学びます」
その言葉に、
ルーネは顔を上げた。
「学ぶ……?」
「境界がある、
ということを」
イェルグは、
川面に映る空を見る。
「そして、
境界が崩れる場所を、
探す」
風が、
水面を揺らした。
「……この川が、
枯れたら……」
ルーネの声は、
小さい。
「ええ」
イェルグは、
答える。
「それが、
次です」
しばらく、
二人とも黙った。
水の音だけが、
あった。
「……教会は、
こういう話を、
好みませんね」
ルーネが、
ぽつりと言う。
「ええ」
「境界が、
自然のもので、
祈りではない、
なんて……」
「祈りは、
後でもできます」
イェルグは、
淡々と返す。
「まず、
越えないこと」
ルーネは、
頷いた。
「……僕、
さっき……」
「はい」
「ヌックを、
怖いと思うより……」
言葉を探す。
「……納得、
してしまいました」
イェルグは、
一瞬だけ、
彼を見る。
「それは、
危険です」
「……はい」
「ですが」
間。
「検死官には、
必要です」
ルーネの目が、
揺れた。
「……ここまで、
教えるつもりは、
なかったんですか」
イェルグは、
川から視線を外し、
煙草を取り出した。
火は、
つけない。
「仕事の途中でしたから」
それだけだった。
遠くで、
鐘が鳴る。
教会の時間が、
流れていく。
だが、
川は、
流れを変えない。
淡水は、
境界として、
そこに在り続ける。
それが、
いつまでか。
それを、
記す者がいなければ。
イェルグは、
川に背を向けた。
「戻りましょう」
「……はい」
ルーネは、
最後にもう一度、
川を見た。
越えられないものが、
そこにある。
それを知ってしまった顔で。