第七十九話 返事をしてはいけない
その夜、ルーネは眠れなかった。
宿として使われている村の空き家は、清潔だった。床は磨かれ、埃もない。寝台も整えられている。人が“世話をすること”に慣れすぎている家だった。
目を閉じると、声が蘇る。
「だいじょうぶ」
意味のないはずの言葉。
理解していないはずの音。
それなのに、胸の奥に残っている。
ルーネは起き上がり、窓を開けた。夜気は冷たい。だが、村の中央――あの子供がいたあたりから、微かな熱を含んだ空気が流れてくる気がした。
「……考えすぎだ」
自分に言い聞かせる。
検死官だ。感情に引きずられるな。
死体を前にして、泣く仕事じゃない。
それでも、昼間見た光景が離れなかった。
子供の目。澄み切って、底が見えない。
戸口で足音がした。
イェルグだ。
「起きてるな」
「……はい」
イェルグは椅子に腰掛け、外套を脱がない。
「眠れない理由は分かる。だが、それは“向こうの都合”だ」
「向こう……」
「ああ。あれはな、存在するだけで人の内側を揺らす」
イェルグは指で机を軽く叩いた。
「聞いた言葉を、感情ごと返す。だから、人は自分が“理解された”と錯覚する」
ルーネは唇を噛む。
「……俺、返事しそうになりました」
「だろうな」
責める調子ではなかった。
「検死官でもそうだ。いや、検死官だからこそだ。弱ってるもの、壊れかけてるものを見る職業だからな」
イェルグは視線を落とす。
「だが覚えろ。あれは助けを求めてない」
「でも……“離れないで”って」
「求めているのは理解じゃない。拘束だ」
ルーネの胸が、少しだけ痛んだ。
「……悪意は、ないですよね」
「ない」
即答だった。
「だから厄介だ」
沈黙が落ちる。
「村人は、あれを守ってたんでしょうか」
「守ってる“つもり”だっただろうな。実際は、削られていた」
イェルグは続ける。
「衰弱死したのは、母親役だった女だ。四六時中そばにいた。世話をして、声をかけて、離れなかった」
「……だから、死体が」
「痩せ細って、臓器が弱って、だが外傷はない。典型的な“原因不明”だ」
ルーネは目を伏せる。
「それでも……あれを、怪異だって呼ぶのは」
「人が理解できなかったものに、名前をつける。それが怪異だ」
イェルグは立ち上がった。
「優しさで殺されることもある。忘れるな」
翌日、再調査に出た。
村人は協力的だった。
協力的すぎるほどに。
「いい子なんです」
「何もしないんです」
「そばにいるだけで、落ち着く」
同じ言葉が、何度も繰り返される。
家々を回るうち、ルーネは気づいた。
誰も、“あの子”を一人にしていない。
必ず誰かがいる。
誰かが、話しかけている。
昼下がり、例の子供は井戸のそばにいた。
日差しの中で、石を積んでいる。
「ねえ」
声をかけられたのは、ルーネだった。
「……」
返事を、喉の奥で噛み殺す。
「ここ、いっしょ」
近づいてくる。
無邪気な足取り。影が、微かに歪む。
ルーネの胸が締め付けられる。
拒絶する理由が、見つからない。
「返すな」
背後から、イェルグの声。
ルーネは、拳を握った。
子供は不思議そうに首を傾げる。
「……すき」
その瞬間、脳裏に浮かぶ。
かつて誰かに言われた、守られる言葉。
失った温度。
答えたい。
答えれば、楽になる気がした。
――それが罠だ。
ルーネは、一歩下がった。
子供の表情が、ほんの一瞬だけ揺らぐ。
泣かない。怒らない。ただ、理解できない顔。
その背後で、空気が重くなる。
「……」
イェルグが前に出る。
「これ以上は危険だ。今日は引く」
去り際、ルーネは振り返ってしまった。
子供は、まだそこにいた。
「だいじょうぶ」
その言葉が、
この村で何人を壊したのか。
ルーネは初めて思う。
――もし、自分が返事をしていたら。
この怪異は、
確実に、自分を選んでいた。