第八十話 優しい声の事故
事故は、昼に起きた。
それが救いだったのかどうか、ルーネには分からない。
少なくとも夜だったら、誰かが死んでいた。
村外れの納屋。
穀物庫として使われなくなった建物で、若い女が倒れていると報せが入った。
イェルグとルーネが駆けつけた時、女はまだ生きていた。
息は浅く、脈は弱い。汗で髪が額に張り付いている。
「……離れ、ない……」
意味を成さない言葉が、唇からこぼれていた。
傍らには、あの子供がいた。
床に座り込み、女の手を両手で包んでいる。
その姿は、あまりにも普通だった。
看病する子供にしか見えない。
「だいじょうぶ」
子供が言う。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
声は柔らかく、抑揚も穏やかだ。
だが――
女の呼吸が、さらに乱れた。
ルーネは一瞬、動けなかった。
理屈が追いつかない。
「見るな、聞くな」
低く、鋭い声だった。
「今起きているのは、会話じゃない。共鳴だ」
イェルグは外套から布を取り出し、女の口元を軽く覆った。
声を遮るためではない。
“返事”を防ぐためだ。
女の目が、わずかに開く。
焦点が合っていない。
「……ここ……」
子供が、首を傾げる。
「ここ、いい」
「いいこ、いいこ」
その言葉に、女の指が動いた。
子供の袖を、掴もうとする。
ルーネの胸が締め付けられる。
あれは――
自分が誰かを守ろうとした時の動きだ。
「ルーネ」
イェルグの声が、はっきりと届く。
「説明するぞ。目を逸らすな。だが、心は向けるな」
酷な命令だった。
「言語特性〈反響言語〉。あれは、人語を理解しない」
イェルグは淡々と言う。
「意味を知らない。ただ、音と感情だけを受け取る」
子供が繰り返す。
「すき」
「すき、すき」
女の脈が、乱高下する。
「過去に向けられた言葉――守られる記憶。それを引きずり出して、増幅して返す」
「……だから」
「“優しい言葉”ほど、致命傷になる」
ルーネは、女の顔を見る。
そこには苦痛と、安堵が同時にあった。
――このまま眠れたら、楽だ。
そう思っている顔だった。
「離せ」
イェルグが、子供の肩に触れた。
抵抗はない。
だが、空気が歪んだ。
納屋の梁が、軋む。
音のない圧迫感が、肺を押す。
子供は見上げる。
「……いかないで」
ルーネの喉が、勝手に震えた。
言葉を返したら、終わる。
分かっているのに。
「……」
女が、微かに微笑った。
「……ありがとう……」
その瞬間だった。
空気が、爆ぜるように重くなる。
感情が、溢れ出す。
ルーネは、膝をついた。
罪悪感。
焦燥。
誰かを救えなかった記憶。
すべてが、一気に押し寄せる。
「ルーネ!」
イェルグが怒鳴る。
「耳を塞げ!」
遅かった。
子供の声が、すぐ近くで響く。
「だいじょうぶ」
「一人じゃ、ない」
それは――
ルーネが、かつて欲しかった言葉だった。
視界が滲む。
このまま、ここにいればいい。
考えなくていい。
選ばなくていい。
そのとき、冷たいものが頬に触れた。
イェルグが、水をぶちまけたのだ。
「戻れ!」
現実が、乱暴に引き戻される。
子供は、黙った。
いや――
“黙らされた”。
聖句の刻まれた金属環が、口元に当てられている。
泣かない。
暴れない。
ただ、周囲の空間が、歪み始める。
「これ以上は危険だ」
イェルグは短く言う。
「女を運べ。ここから離す」
数刻後、女は助かった。
衰弱は深刻だが、命に別状はない。
村人たちは、胸を撫で下ろした。
「よかった」
「やっぱり、あの子は悪くない」
その言葉を聞きながら、ルーネは立ち尽くす。
助かったのは、誰の力だ?
子供か。
イェルグか。
それとも、偶然か。
夜、宿に戻ってからも、手が震えた。
イェルグが言う。
「今のが、限界だ」
「……討伐、できるんですか」
「できる」
即答だった。
「だが、その前に――誰かが、応えてしまう」
ルーネは、顔を上げる。
「それは」
イェルグは、目を伏せた。
「たいてい、一番優しいやつだ」
ルーネの胸に、嫌な予感が落ちる。
そして、それが
自分ではないと言い切れないことに気づいてしまった。