第八十一話 呼び名の多いもの
その夜、ルーネは眠れなかった。
目を閉じると、あの声が浮かぶ。
「だいじょうぶ」
「一人じゃ、ない」
優しすぎて、拒めない音。
宿の窓辺で夜気に当たっていると、階下から足音がした。
イェルグだ。湯を沸かしに来たらしい。
「……先生」
呼びかけると、イェルグは一瞬だけこちらを見て、頷いた。
「来い。説明する」
火の落ちた炉の前。
湯気だけが、ゆっくり立ち上る。
「さっきの怪異だがな」
イェルグは、椀に湯を注ぎながら言った。
「正式な名前はない」
「……え?」
「教会でも、学会でも、統一されていない。地域ごとに呼び名が違う」
ルーネは耳を澄ませる。
「北では《抱き仔》」
「河沿いの村じゃ《白児》」
「港町だと《愛喰い》」
「古文書では《無垢病》なんて書かれ方もする」
「病……?」
「“そう呼んだ方が都合が良かった”だけだ」
イェルグの声には、わずかな苛立ちが混じっていた。
「共通しているのは、全部“人が理解できなかったもの”に貼られた札だという点だ」
ルーネは、昨日の子供の顔を思い出す。
穏やかな笑み。澄んだ目。
「……でも、あれは」
「子供に見える、だろう」
イェルグは頷く。
「だが、原因は“ああいう子供が生まれたから”じゃない」
そこを、はっきり区切った。
「逆だ」
ルーネは息を止める。
「世界が、あれを作った」
イェルグは語る。
「感情が鋭すぎた」
「音が多すぎた」
「期待と愛情が、重すぎた」
「……」
「愛を受け止める器が、最初から足りなかっただけだ」
ルーネは、胸の奥がざらつくのを感じた。
「理解する方法が、“愛すること”しか残らなかった存在」
「だから、ああなる」
「攻撃はしない。拒絶もしない。ただ――離れない」
炉の中で、薪がぱちりと弾ける。
「じゃあ……」
ルーネは、言葉を探す。
「悪意は、ない?」
「ない」
即答だった。
「憎しみも、ない。罰でもない」
イェルグは湯を飲み干す。
「あるのは、歪んだ純粋性だけだ」
ルーネの指先が、無意識に握られる。
「でも……人が、死にかけた」
「存在そのものが、害になる」
イェルグは淡々と言った。
「感情を共鳴させる。特に、守ろうとする者ほど深く」
「母親」
「保護者」
「拒まない匂いを持つ人間」
――自分だ。
そう思ってしまって、ルーネは目を伏せた。
「……討伐は」
「可能だ」
イェルグは、少しだけ間を置いた。
「物理的にはな」
「抵抗しない。逃げない。泣きもしない」
「ただ首を傾げて、“どうして?”と見る」
ルーネの喉が鳴る。
「……それ、剣を振れますか」
「振れない者の方が多い」
イェルグは正直だった。
「だから、被害が広がる」
「優しい人間から、壊れていく」
沈黙が落ちる。
ルーネは、昨日の自分を思い出す。
返事をしそうになった、あの一瞬。
「……先生」
「なんだ」
「名前を与えるのは、間違いなんですか」
イェルグは、少し考えた。
「必要な時もある」
「だが、忘れるな」
低い声。
「名前は、理解した“つもり”になるための道具だ」
「理解した瞬間、人は安心して、責任を手放す」
ルーネは、胸が痛くなった。
「だから、あれは――」
「怪異と呼ばれる」
イェルグは立ち上がる。
「理解できないものを、社会はそう呼ぶ」
「呼ばれた側は、選べない」
階段へ向かう背中が、止まる。
「ルーネ」
「はい」
「次に起きるのはな」
一瞬、振り返った。
「誰かが、応えてしまった後だ」
その言葉が、胸に沈む。
夜が、やけに静かだった。
声がしないのに、
**“離れないで”**という感情だけが、まだ残っている気がした。