検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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返事

第八十二話 返事

 

 その家は、村の中でもいちばん静かな場所にあった。

 

 騒音がない、という意味ではない。

 音が吸われている、と言ったほうが近い。

 

 扉を開けた瞬間、ルーネは自分の呼吸音が急に大きくなった気がした。

 室内は整っている。埃もなく、匂いもない。

 生きている人間の生活感だけが、少しずつ削ぎ落とされている。

 

「……いる」

 

 小さな声が、寝台の向こうから聞こえた。

 

 子供が座っている。

 

 年は、七つか八つ。

 昨日見たときと変わらない、穏やかな顔。

 よく笑う口元。

 そして――澄みすぎた目。

 

 世話役の女は、子供の隣に座っていた。

 姿勢が不自然だ。背中を伸ばしているのに、力が入っていない。

 まるで、長い時間そこに「置かれていた」ようだった。

 

「……先生」

 

 ルーネは小声で呼ぶ。

 

 イェルグはすでに状況を見ていた。

 

「順調だな」

 

「順調、ですか」

 

「怪異の方はな」

 

 女は、ゆっくりこちらを振り向いた。

 

「この子、いい子でしょう」

 

 その声に、熱がない。

 嬉しそうでも、悲しそうでもない。

 ただ、続けるべき言葉を繰り返している。

 

「夜も静かで……泣かないし……」

 

 子供が、ふふ、と笑う。

 

「だいじょうぶ……」

 

 意味を持たない音。

 けれど、“守られた記憶”にだけ触れる音。

 

 ルーネの胸が、微かに反応する。

 

 イェルグが言った。

 

「返事をするな」

 

 それは、確認だった。

 叱責でも警告でもない。

 

「聞いているだけでいい。反応するな」

 

 ルーネは、頷いた。

 

 ――分かっている。

 

 分かっている、はずだった。

 

 子供の目が、ゆっくりルーネを捉える。

 

「ねえ……」

 

 喉が、鳴る。

 

「ねえ……」

 

 声が、近い。

 

 ルーネの中で、何かがほどけた。

 

 呼ばれているわけじゃない。

 理解されているわけでもない。

 

 それでも。

 

「……はい」

 

 音が、出てしまった。

 

 空気が、変わる。

 

 子供の影が、床の上でわずかに揺らいだ。

 歪みが、ルーネの足元まで伸びる。

 

 イェルグが、一瞬だけ目を細めた。

 

 子供は、満足そうに笑った。

 

「いる……」

 

 それは肯定ではない。

 会話でもない。

 

 繋がった、という事実の確認。

 

 女が、はっと息を吸う。

 

「あ……」

 

 何かに気づいたように、ルーネを見る。

 

 イェルグが言った。

 

「――終わったな」

 

 静かな声だった。

 

 ルーネは、理解するのに少し時間がかかった。

 

「……何が」

 

「選ばれた」

 

 子供が、ルーネの方へ体を向ける。

 

「いっしょ……」

 

 女の肩が、わずかに軽くなった。

 

 ルーネは、その変化を見逃さなかった。

 

「……あの人」

 

「負担が移った」

 

 イェルグは淡々と説明する。

 

「世話役は、一人でいい。いや、一人しか要らない」

 

「候補が現れれば、分散する」

 

 ルーネの胃が、重くなる。

 

「……じゃあ、僕が」

 

「そうだ」

 

 即答だった。

 

「お前は、応えた」

 

 イェルグは、視線を逸らさない。

 

「返事は、同意だ」

 

 ルーネは、口を開きかけて閉じた。

 

 言い訳が、何一つ浮かばない。

 

「先生……」

 

「分かっている」

 

 イェルグの声が、少しだけ低くなる。

 

「お前が悪いわけじゃない」

 

「だが、もう“無関係”ではない」

 

 子供が、また囁く。

 

「すき……」

 

 その言葉が、胸に落ちてくる。

 

 重い。

 温かい。

 そして、離れない。

 

 ルーネは、初めて分かった。

 

 ――これは、救えない。

 ――救おうとした瞬間に、構造に組み込まれる。

 

「……先生」

 

「なんだ」

 

「これ、いつ終わるんですか」

 

 イェルグは、少しだけ黙った。

 

「誰かが、死ぬまでだ」

 

 ルーネは、子供を見た。

 

 穏やかな顔。

 守られるべき姿。

 

 その存在が、静かに誰かの命を削っている。

 

 そして今、その刃先は――自分にも向いている。

 

 イェルグは言った。

 

「覚えておけ」

 

「こいつは、嘘をつかない」

 

「だが、真実も話さない」

 

 ルーネは、拳を握った。

 

 返事をしてしまった、その事実が。

 取り消せないことを、もう理解していた。

 

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