第八十四話 沈黙
夜は、音を吸い込む。
灯りを落とした家屋の前で、イェルグは足を止めた。
扉の向こうから、微かな気配が漏れている。
泣き声はない。
叫びもない。
それでも、そこに「いる」ことだけは、はっきりと分かった。
ルーネは、喉の奥が乾くのを感じながら、耳当てを装着した。
厚い布と革で作られたそれは、音を完全には遮断しない。
ただ、輪郭を鈍らせるだけだ。
「視線を合わせるな」
イェルグの声が、遠くで聞こえる。
「聞こえても、意味を探すな」
意味。
その言葉が、胸の内で反響する。
――意味なんて、最初からない。
――あるのは、感情だけだ。
扉を開ける。
子供は、いつもの場所に座っていた。
膝を抱え、穏やかに微笑んでいる。
まるで、夜が来るのを待っていたかのように。
「……ねえ」
声が、耳当てを通り抜けてくる。
ぼやけた音。
けれど、感情の温度だけは、はっきりと伝わってくる。
ルーネは、視線を床に落とした。
床板の隙間。
乾ききった土の色。
女が最後まで掃除していた痕跡。
イェルグが前に出る。
無言で、結界具を配置していく。
符文が淡く光り、空間の輪郭が歪む。
「だいじょうぶ……」
子供の声が、少し近づく。
ルーネの指が、震えた。
耳当ての内側で、別の声が重なる。
――過去に聞いた声。
誰かに向けて言われた言葉。
「一人じゃないよ」
記憶が、勝手に引き出される。
それが危険だと、分かっている。
返事をしたら終わりだと、知っている。
それでも、身体が反応してしまう。
子供が、一歩踏み出す。
距離が、詰まる。
空気が、重くなる。
「……いっしょ」
その言葉が、胸の奥に沈む。
イェルグが、短く合図を出す。
――今だ。
ルーネは、刃を握り直した。
感情遮断具が、胸元で冷たい。
心拍が、やけに大きく聞こえる。
子供は、逃げない。
怖がりもしない。
ただ、不思議そうに首を傾げる。
「どうして……?」
その一言で、世界が揺れる。
問いではない。
理由を求めていない。
ただ、離れないための音。
ルーネの喉が、動く。
言葉が、こぼれそうになる。
――だいじょうぶだ。
――ここにいる。
その言葉が、どれほど危険か。
頭では、理解している。
でも、理解と行動は一致しない。
刃が、震える。
イェルグの動きが、視界の端に入る。
無言で、符文を強める。
空間が、きしむ。
子供の声が、少しだけ歪む。
「……すき」
その言葉は、選ばれていた。
一番、応えたくなる言葉。
一番、返事をしてはいけない言葉。
ルーネは、唇を噛みしめた。
血の味がする。
――返事をしない。
――返事をしない。
沈黙。
それは、拒絶ではない。
でも、受容でもない。
子供の目が、揺れる。
初めて、感情が乱れる。
泣かない。
怒らない。
ただ、分からない、という顔。
空間が、歪み始める。
言葉を失った代わりに、感情が漏れ出す。
不安。
執着。
孤独。
それが、波のように広がる。
ルーネの膝が、わずかに折れた。
視界が、白くなる。
それでも、口は閉じたままだ。
イェルグが、低く言う。
「……今だ」
刃が、振り下ろされる。
抵抗は、ない。
逃げもしない。
ただ、その瞬間。
「……いる」
かすれた声が、零れる。
それは、最後まで一貫していた感情。
離れないで。
刃が、役目を果たす。
光が、弾ける。
空間の歪みが、ゆっくりと収束していく。
沈黙が、残る。
ルーネは、その場に立ち尽くしていた。
耳当ての内側で、自分の呼吸だけが聞こえる。
イェルグが、刃を下ろす。
「……終わった」
その言葉は、確認だった。
ルーネは、頷けなかった。
床に、何も残っていない。
血も、痕跡も。
最初から、いなかったかのように。
それが、何よりも、重かった。
ルーネは、ゆっくりと耳当てを外す。
音が、戻ってくる。
夜の、静かな音。
――返事をしなかった。
それが、勝利なのかどうか。
ルーネには、分からない。
ただ一つ、確かなことがある。
あの声は、もう、聞こえない。
それでも、胸の奥に残った何かが、
しばらく消えそうにないことだけは――
はっきりと、分かっていた。