検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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息をしているあいだ
昼飯の時間


第八十七話 幕間一:昼飯の時間

 

街道沿いの安宿は、昼時を少し外していた。

客はまばらで、暖炉の火も落とされ、空気だけが惰性でそこに残っている。鍋の匂いと、湿った木の匂い。どこにでもある、何も起きない場所だった。

 

イェルグは椅子を引くと、無言で腰を下ろした。外套を脱ぎ、椅子の背に掛ける動作が無駄なく、慣れている。

ルーネはその向かいに座り、少し遅れて同じように外套を外した。真似をした、という自覚が胸の奥に残る。

 

「……静かですね」

 

言ってから、何を言っているんだ、と自分で思う。

静かなのは当たり前だ。昼時を外した宿で、何も起きていないのだから。

 

「昼飯時は、こういうところがいい」

 

イェルグはメニューも見ずに言った。

「人が多いと、飯の味が分からん」

 

それが持論なのか、ただの好みなのか、ルーネにはまだ分からない。

 

運ばれてきたのは、パンと煮込みだけだった。肉は少なく、根菜が多い。塩気は控えめで、正直に言えば、取り立てて美味いものではない。

 

ルーネはスプーンを持ったまま、一瞬だけ手を止めた。

ここ数日、味覚が戻ってきていない。何を食べても、舌の上を通り過ぎていくだけで、感想が湧かない。

 

「食え」

 

イェルグは、顔を上げずに言った。

 

「……はい」

 

返事をして、口に運ぶ。

温かい。硬いパンも、煮込みも、ちゃんと噛めばちゃんと腹に落ちる。

 

「仕事の後は、考えるな」

 

イェルグは言う。

「食う。寝る。それだけやれ」

 

それは命令というより、確認に近かった。

検死官としての指示ではなく、もっと雑で、生活寄りの言葉。

 

「先生は……」

 

ルーネは、少し迷ってから口を開いた。

 

「こういう時間、切り替えられるんですか」

 

スプーンが止まった。

イェルグは初めて顔を上げ、ルーネを見た。

 

「切り替えてはいない」

 

短く言って、また食べる。

 

「ただ、腹は減る」

 

それだけだ、と言わんばかりに。

 

ルーネは、それ以上何も言えなくなった。

切り替える、という言葉が、自分の中で浮いているのが分かる。あれを切り替えられる日が来るのか。来るとして、それは良いことなのか。

 

「お前は、まだ考えすぎる」

 

イェルグは、咀嚼しながら言った。

 

「考えるのは悪くないが、今じゃない」

 

「……今じゃない、ですか」

 

「今は昼飯だ」

 

それだけのことなのに、少しだけ笑いそうになって、慌てて俯いた。

 

しばらく、食器の音だけが続く。

暖炉のない空間で、昼の光が窓から差し込んでいる。何も象徴的なものはない。救いを示す何かもない。

 

それが、かえって現実だった。

 

イェルグは食事を終えると、懐から煙草を取り出しかけて、止めた。

店内を一瞥して、舌打ちする。

 

「外だな」

 

「僕、先に片付けてきます」

 

「いい。置いておけ」

 

二人で外に出る。

風は冷たくもなく、暖かくもない。街道を行く人間の足音が、遠くで断続的に聞こえる。

 

イェルグは火を点け、深く吸った。

煙が、昼の空気に溶けていく。

 

ルーネはそれを見ながら、不意に思う。

声がしない。呼ばれていない。返事をする必要がない。

 

それだけで、胸の奥が少し軽くなるのを、否定できなかった。

 

「……先生」

 

「なんだ」

 

「こういう時間があると……」

 

言葉を探して、結局、見つからない。

 

イェルグは煙を吐き、目を細めた。

 

「あるから、続けられる」

 

それ以上は、言わなかった。

 

煙が消えるまで、二人はそこに立っていた。

ただ昼飯を食べて、ただ外に出て、ただ何も起きなかった。

 

それだけの時間が、確かに存在していた。

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