第八十八話 幕間二:洗うという作業
宿の裏手には、小さな井戸と洗い場があった。
石を積んだだけの簡素な造りで、屋根も半分しかかかっていない。昼を過ぎた光が、斜めに差し込んでいる。
イェルグは外套と上着を脱ぎ、無言で桶に水を汲んだ。
動きは相変わらず無駄がない。洗う順番も、干す位置も、考えている様子がない。
ルーネは少し遅れて同じように準備をする。
袖を通したままの時間が長かったせいか、布が妙に重い。
「血は、乾く前に落とせ」
イェルグは言う。
洗い場に腰を下ろし、石鹸を削りながら。
「乾いたら、布の奥に入る」
「……全部は、落ちないですよね」
「落ちない」
即答だった。
ルーネは桶の中に手を入れ、水の冷たさに息を詰める。
布を揉む。指先に、ざらりとした感触が残る。赤黒く変色した部分は、どれだけ擦っても色を手放さない。
「先生は……」
言いかけて、止めた。
イェルグは、何も言わずに自分の外套を洗っている。
血の跡は、ルーネのものよりずっと多い。それでも、躊躇がない。
「聞きたいなら、言え」
低い声で、促される。
「……慣れますか」
その問いが、何を指しているのかは、互いに分かっていた。
イェルグは、少しだけ手を止めた。
水滴が、布から落ちる。
「慣れはしない」
そう言ってから、洗う手を再開する。
「ただ、手順になる」
ルーネはその言葉を反芻する。
慣れるのではなく、手順になる。感情ではなく、作業として扱う。
「それって……逃げじゃないんですか」
口に出してから、しまったと思った。
若さが出た、と思う。
イェルグは笑わなかった。
怒りもしない。
「逃げられるなら、逃げている」
淡々とした声だった。
「だが、逃げても終わらん。だから洗う」
それだけだ。
ルーネは、再び布を揉む。
水が濁り、石鹸の泡が立つ。指先が冷えて、感覚が鈍くなる。
それでも、落ちないものがある。
「……全部落とさなくていい」
イェルグは、ふいに言った。
「え?」
「残っていると、思い出せる」
何を、とは言わない。
「忘れる必要はない。持ち帰らなくていいだけだ」
ルーネは、外套の染みを見る。
確かに、全部が消えたら、それはそれで怖い気がした。
洗い終えた布を、二人で並べて干す。
風に揺れる外套とシャツは、どれも似た色をしている。誰の血だったのか、もう分からない。
「検死官って、地味ですね」
ぽつりと、ルーネが言った。
「派手さを求める仕事じゃない」
「でも……」
言葉が続かない。
イェルグは、洗い場の石に腰を下ろし、煙草を取り出した。
火を点ける前に、ルーネを見る。
「嫌なら、今でも別の道はある」
それは試すような口調ではなかった。
事実の提示だ。
ルーネは首を振る。
「……嫌じゃないです」
即答だった。
それが正しいのかどうかは、分からない。
「ただ……」
「ただ?」
「洗っても、終わらないんだなって」
イェルグは煙を吸い、ゆっくり吐いた。
「終わらせる仕事じゃない」
灰が落ちる。
「次に行けるようにするだけだ」
干した布が、風に揺れる。
水滴が落ち、地面に染みる。やがて、それも消える。
完全には消えないものと、消えていくもの。
その区別を、少しだけ理解した気がした。
ルーネは、洗い場から一歩下がり、深く息を吸った。
冷たい水と、石鹸と、煙草の匂い。
声は、聞こえない。
それだけで、今日は十分だと思えた。