第八十九話 幕間三:地図の端
宿の二階、窓際の小さな机に、地図が広げられていた。
羊皮紙は何度も折られ、端が柔らかくなっている。インクはところどころ滲み、街道の線は少し歪んで見えた。
イェルグは椅子に腰を下ろし、煙草を咥えたまま地図を指で押さえる。
火は点けない。単に口にあるだけだ。
「先生、そこ……何も書いてないですね」
ルーネが言った。
地図の右下、川と山の間に、妙に空白の多い一角がある。
「書いてないんじゃない」
イェルグは答える。
「消えてる」
ルーネは眉をひそめた。
消える、という言い方が気になる。
「村が、ですか」
「ああ。いくつか」
指が、空白をなぞる。
そこには、かつて点があり、名前があったはずの場所だ。
「全部、事件があったところですか」
「事件というより……処理だな」
イェルグは煙草を外し、机の上に置いた。
「記録に残す価値がないと判断された」
「価値……」
言葉にしてみると、喉に引っかかる。
「価値って、誰が決めるんですか」
「決められる側が、決める」
答えになっているようで、なっていない。
でも、イェルグはそれ以上説明しない。
ルーネは地図を見下ろす。
線と線の間に、何もない場所がある。空白は静かで、しかし目に留まる。
「僕、ここに行ったこと……ある気がします」
言ってから、自分でも曖昧だと思った。
「気がする、だけです」
「そういうもんだ」
イェルグは、あっさり言う。
「消えた場所は、記憶に残りやすい」
「どうしてですか」
「確かにあったはずだからだ」
ルーネは、指先で地図の縁を押さえた。
紙の感触は現実的で、そこに描かれていないものの方が、なぜか重い。
「検死官って……」
ふと、口をついて出る。
「死んだものを見る仕事だと思ってました」
「違う」
即答だった。
「死んだ“あと”を見る」
イェルグは、初めて火を点けた。
小さな炎が揺れ、煙が立つ。
「生きていた痕跡を見る仕事だ」
ルーネは、その言葉を胸の中で転がす。
生きていた痕跡。
消えた村にも、確かにあったはずのもの。
「じゃあ……」
少し躊躇ってから、続ける。
「消えた場所も、見てることになるんですね」
「そうだ」
煙が、天井に向かって薄く広がる。
「だから、地図は捨てない」
イェルグは地図を畳み、丁寧に端を揃えた。
消えた場所を含めて、それが全体なのだというように。
ルーネは窓の外を見る。
街道を歩く人影。荷車。何も知らない、いつもの往来。
「……先生」
「なんだ」
「もし、僕たちが消えたら」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
「誰か、覚えてますか」
イェルグは、少しだけ考える素振りを見せた。
それから、煙を吐く。
「覚えてなくても、線は残る」
「線?」
「誰かの手順になる」
それは、洗い場で聞いた言葉と似ていた。
「それで十分だ」
ルーネは、少しだけ息を吐いた。
十分、という言葉が、今日はやけに温かい。
地図は畳まれ、机の端に置かれる。
空白も、線も、一緒に。
何も起きない午後が、静かに過ぎていく。
それが、確かに日常だった。