検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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市場は今日も回っている

第九十話 幕間四:市場は今日も回っている

 

市場は朝から騒がしかった。

石畳の上を行き交う靴底の音が重なり、呼び声と値切り声が空気を叩く。天幕から垂れた布が風をはらみ、色あせた赤や青が陽に透けて揺れている。果物の甘さと、焼いた肉の脂の匂いが混じり合い、そこに獣の皮と湿った土の匂いが重なる。人が集まる場所特有の、少しだけ息苦しいほどの生の密度。

 

「人、多いですね」

 

ルーネが言う。

その声は、周囲の喧騒にすぐ飲み込まれる。

 

「いつも通りだ」

 

イェルグは短く返した。

肩から提げた鞄は軽い。次の仕事まで、まだ数日は余裕がある。その事実が、逆に落ち着かない。

 

「保存食を補充する。塩と、乾燥豆」

 

「あと薬草ですよね」

 

「必要分だけだ」

 

その“だけ”が、どこまでを指すのか、ルーネにはいまだによく分からない。

イェルグの言う必要は、最低限でありながら、決して不足しない。その線を、ルーネはまだ掴めずにいる。

 

露店を一つ一つ覗きながら歩く。

干し肉、燻した魚、革紐、簡素な刃物。どれも実用的で、旅と仕事に向いているものばかりだ。検死官として歩くには、こういうものがあれば足りる。足りるはずだ。

 

――向いていないものも、当然、視界に入る。

 

色を塗られた木の駒。

布切れを縫い合わせただけの小さな人形。

棒に付けられた風車が、子供の手でくるくると回っている。

 

ルーネは、気づけば足を止めていた。

 

「……先生」

 

「何だ」

 

呼びかけに、イェルグは振り返らない。

 

「これ、軽いですね」

 

手に取っていたのは、小さな木彫りの笛だった。指でなぞると、表面はざらついている。雑な作りで、音程もおそらく定まらないだろう。

 

「要らん」

 

即答だった。

 

「ですよね……」

 

そう言いながらも、ルーネは笛を棚に戻さない。

露店の親父が、少し離れたところでにやにやと様子を窺っている。売れるかどうかよりも、人の迷いを見るのが楽しい、といった顔だ。

 

「使い道がない」

 

イェルグは淡々と言う。

 

「音は、呼ぶ」

 

その一言で、ルーネの指が止まった。

“呼ぶ”――その言葉が、胸の奥で小さく跳ねる。思い出そうとしたわけではないのに、いくつもの声が、意味のない残響として脳裏をかすめる。

 

「……じゃあ、これは」

 

誤魔化すように、別の品を手に取る。厚手の手袋だ。サイズは少し小さい。

 

「冬でもない」

 

「でも、血、冷たいじゃないですか」

 

言ってから、言い訳めいていると思った。

イェルグはしばらく手袋を見つめ、それから露店の奥に視線を移す。

 

「それなら、こっちだ」

 

差し出されたのは、丈夫な布巾だった。

汚れを拭うためだけに作られた、無骨な布。

 

「余計なものは増やすな」

 

「はい……」

 

ルーネは渋々頷く。

それでも、笛を戻そうとして――やめた。

 

「一つだけ」

 

声が、少しだけ弱くなる。

 

イェルグは、ようやくルーネを見る。

責めるでもなく、探るでもない目。仕事のときと同じ、距離を測る視線。

 

「理由は」

 

「……音を出さない」

 

ルーネは笛の口を指で塞ぐ。

 

「持ってるだけです」

 

沈黙が落ちる。

市場の喧騒だけが、その隙間を埋める。

 

イェルグは小さく息を吐き、露店の親父に銅貨を投げた。

 

「それだけだ」

 

許されたのは、笛ではなく、“持つこと”だった。

音を出さない限り、何も起こらない。起こらせない。その約束ごと。

 

市場を離れかけたとき、背後から子供の笑い声が聞こえた。

追いかけっこをしているらしい。甲高く、軽く、意味を持たない声。

 

ルーネは反射的に振り向きかけて――止めた。

 

それは、呼び声ではなかった。

名前を求めてもいないし、応答も必要としていない。ただ、そこにある音。

 

「行くぞ」

 

イェルグの声は、いつも通りだった。

 

ルーネは笛を鞄の奥にしまい、歩き出す。

市場は、今日も普通に回っている。人が息をして、物を買い、笑い、暮らしている。

 

それだけで、少しだけ救われる気がした。

 

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