第九十一話 幕間五:今日は、静かだな
焚き火は小さかった。
必要以上に明るくしない。炎は低く、風に煽られない位置に組まれている。煙も抑えられていて、夜の闇に溶けるように細く立ち上っては消える。長く野営を続けてきた者の手際だった。
夜の野営は、慣れた作業だ。
地面の硬さを確かめ、風向きを読み、獣道から距離を取る。検死官として旅を続ける中で、何度も繰り返してきた。命の危険に晒される夜も、眠れずに朝を迎えた夜も、数え切れないほどある。
それでも――今夜、ルーネは眠れずにいた。
横になっても、目を閉じても、意識が焚き火の揺らぎから離れない。炎が一定の高さを保ち、ぱちぱちと乾いた音を立てる。その音を数えるようにしている自分に気づいて、苦笑する。
「寝ないのか」
イェルグの声が、静かに届いた。
低く、夜に溶けるような声だ。必要以上に大きくない。周囲に何かが潜んでいないか、常に確認するための声量。
「……まだ」
ルーネは短く答える。
言い訳をする気はなかった。
「無理に寝るな」
それ以上、イェルグは何も言わなかった。
説教も、忠告もない。ただ事実として、眠れないなら起きていろ、と言われただけだ。
火のはぜる音。
遠くで、獣が動いた気配。枝が擦れる微かな音が一度したが、それきりだ。近くには、何もいない。少なくとも、今は。
「静かですね」
ルーネは、ぽつりと言った。
言葉にする必要はなかったが、黙っていると不安が浮かび上がってきそうだった。
「そうだな」
イェルグの返事は短い。
肯定なのか、確認なのか、あるいはただの受け取りなのか。判別はつかない。
「……静かな夜って、好きですか」
自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からなかった。
ただ、この沈黙が続いてほしかったのかもしれない。
少し間があってから、イェルグは答えた。
「嫌いじゃない」
即答ではなかった。
考えてから出た言葉だ。
「安心します?」
「油断できる」
その答えに、ルーネは小さく息を吐いた。
違うようで、近い。安心と油断は、似ているが同じではない。イェルグは、その違いをはっきり分けている。
ルーネは膝を抱え、焚き火を見つめる。
炎は一定の高さを保ち、風に揺れながらも崩れない。生き物のように揺れているのに、感情はない。ただ燃えている。
「先生」
「何だ」
「僕……返事をしてしまうんじゃないかって……時々、思います」
言葉にした途端、胸の奥が少しだけ痛んだ。
声がなくても、呼ばれていなくても、返してしまうのではないか。優しい言葉に、意味を与えてしまうのではないか。
焚き火が、ぱち、と鳴った。
「声が、なくても?」
「なくても」
ルーネは頷く。
静かな場所ほど、余計なものが聞こえてしまう気がした。
イェルグは、しばらく黙っていた。
薪を一度見つめ、火の様子を確かめ、それからゆっくりと口を開く。
「返事は、悪いことじゃない」
意外な言葉だった。
ルーネは顔を上げる。
「ただし」
続く言葉に、自然と背筋が伸びる。
「相手を選べ」
短く、はっきりとした一言。
ルーネは、その言葉を何度も頭の中で反芻した。選ぶ。選ばなければならない。返事をするかどうかではなく、誰に返すのか。
「今日は……選ばなくていいですか」
恐る恐る、尋ねる。
「今日は、何も来ない」
イェルグは断言した。
根拠を説明することもなく、確信だけがあった。
「だから静かだ」
風が、草を揺らす。
それ以上の音はない。呼ぶ声も、応えを求める気配もない。
「……先生」
「何だ」
「こういう夜が、ずっと続けばいいのに」
言ってから、少しだけ後悔した。
続くはずがないと、分かっている。それでも、口にしてしまった。
イェルグは、ふっと鼻で笑った。
「仕事がなくなるな」
「それは……困ります」
「だろう」
焚き火が小さくなり、薪が崩れる。
イェルグは立ち上がり、慣れた動作で火を整える。炎は再び、静かな高さに戻った。
「寝ろ」
今度は、命令に近い声だった。
ルーネは素直に横になり、目を閉じる。
すぐには眠れない。それでも、焦りはなかった。
「……先生」
「まだ何かあるか」
「今日は、静かで……」
言葉を探し、少し迷う。
「……いい夜ですね」
短い沈黙のあと、返事が返ってきた。
「そうだな」
それだけ。
声は、それ以上、増えなかった。
沈黙は、脅威じゃない。今夜は、守られている。
人が息をしているあいだ。
この静けさの中で、ルーネはゆっくりと眠りに落ちていった。