検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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鳴るはずだった音
反復音響現象


第九十二話 反復音響現象

 

イェルグは、地図を見なかった。

見なくても行ける距離だったし、道を間違える理由もなかった。

 

街道を外れ、低い丘を越える。夜明け前の空気は冷え、吐く息が白い。ルーネはそれを横目で見て、同じように息を吐いた。白くならなかった。

 

「……鳴ってますね」

 

言葉より先に、音があった。

 

乾いた、金属音。

規則正しい。

遠くも近くもない、中途半端な距離感。

 

イェルグは足を止めない。

 

「聞こえてるなら問題ない」

 

「問題……ない、ですか」

 

「幻聴なら、ここまで揃わん」

 

音は一定だった。

三拍、間。

三拍、間。

わずかな余韻を残して、同じ強さで繰り返される。

 

「鐘、ですよね」

 

「そう聞こえるなら、そうなんだろう」

 

イェルグはそう言って、丘の斜面を下り始めた。草を踏む音と、鐘の音が重なる。どちらが先に鳴っていたのか、分からなくなる。

 

谷間に、小さな集落があった。

家は少ない。人影はない。

だが、音は止まらない。

 

「時刻は?」

 

「……四つ」

 

「合ってるな」

 

何が、とは言わない。

合っているのは、音の出る時間だった。

 

集落の中央に、古い鐘楼があった。

壊れてはいない。だが、使われてもいない。綱は切られ、鐘は固定されている。

 

それでも、鳴っている。

 

ルーネは無意識に、鐘楼を見上げた。

 

「触るな」

 

イェルグの声は低かった。

 

「触っても、止まらん」

 

「でも……」

 

「鳴ってるのは、あれじゃない」

 

イェルグは鐘楼を素通りし、少し離れた場所で足を止めた。地面を見下ろす。

 

石が積まれている。

墓標とも、ただの境界石ともつかない並び。

 

「ここだ」

 

「……何が」

 

「音の基点」

 

イェルグは膝をつき、手袋を外して土を払った。丁寧でも乱暴でもない動き。作業だった。

 

「反復音響現象。原因不明。意思なし」

 

淡々とした説明。

 

「記録は?」

 

「残ってない」

 

「死者は?」

 

「分からん」

 

鐘の音が、三拍鳴る。

 

「分からない、のに……?」

 

「だから音だけが残った」

 

イェルグは符を取り出し、地面に置いた。時間を測るように、懐中時計を確認する。

 

「弔いが行われなかった死があると、音が出る」

 

「弔い……」

 

「言い方の問題だ」

 

イェルグは顔を上げない。

 

「区切りだ。処理だ。記録だ」

 

「……それ、人の話ですよね」

 

「音の話だ」

 

線を引くような言い方だった。

 

鐘が鳴る。

同じ強さ。

同じ間隔。

 

「祈らなくて、いいんですか」

 

「要らん」

 

「名前も?」

 

「要らん」

 

イェルグは符を並べ、結界を組む。音の周期に合わせて、正確に。

 

「鳴るはずだった音が、遅れて鳴ってるだけだ」

 

「でも」

 

「でも、は処理の邪魔だ」

 

ルーネは口を閉じた。

鐘の音が、少し遠くなる。

 

「止まるんですか」

 

「封じるだけだ」

 

「消えない?」

 

「消す理由がない」

 

最後の符を置く。

音が、ぴたりと止まった。

 

静寂が落ちる。

 

「……終わりですか」

 

「終わりだ」

 

イェルグは立ち上がり、土を払った。

 

「記録は?」

 

「反復音響現象。封印済み。被害なし」

 

「それだけ?」

 

「それだけだ」

 

谷間に、風が通る。

鐘は鳴らない。

 

「先生」

 

「何だ」

 

「ここで……誰か、死んだんですよね」

 

イェルグは少しだけ考えてから答えた。

 

「死んだかどうかは分からん」

 

「でも、鳴るはずだった」

 

「そうだな」

 

それ以上は、言わなかった。

 

二人は集落を離れる。

背後で、何も鳴らない。

 

ルーネは一度だけ、振り返った。

音のない鐘楼は、ただの建物だった。

 

鳴るはずだった音は、

もう聞こえなかった。

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