反復音響現象
第九十二話 反復音響現象
イェルグは、地図を見なかった。
見なくても行ける距離だったし、道を間違える理由もなかった。
街道を外れ、低い丘を越える。夜明け前の空気は冷え、吐く息が白い。ルーネはそれを横目で見て、同じように息を吐いた。白くならなかった。
「……鳴ってますね」
言葉より先に、音があった。
乾いた、金属音。
規則正しい。
遠くも近くもない、中途半端な距離感。
イェルグは足を止めない。
「聞こえてるなら問題ない」
「問題……ない、ですか」
「幻聴なら、ここまで揃わん」
音は一定だった。
三拍、間。
三拍、間。
わずかな余韻を残して、同じ強さで繰り返される。
「鐘、ですよね」
「そう聞こえるなら、そうなんだろう」
イェルグはそう言って、丘の斜面を下り始めた。草を踏む音と、鐘の音が重なる。どちらが先に鳴っていたのか、分からなくなる。
谷間に、小さな集落があった。
家は少ない。人影はない。
だが、音は止まらない。
「時刻は?」
「……四つ」
「合ってるな」
何が、とは言わない。
合っているのは、音の出る時間だった。
集落の中央に、古い鐘楼があった。
壊れてはいない。だが、使われてもいない。綱は切られ、鐘は固定されている。
それでも、鳴っている。
ルーネは無意識に、鐘楼を見上げた。
「触るな」
イェルグの声は低かった。
「触っても、止まらん」
「でも……」
「鳴ってるのは、あれじゃない」
イェルグは鐘楼を素通りし、少し離れた場所で足を止めた。地面を見下ろす。
石が積まれている。
墓標とも、ただの境界石ともつかない並び。
「ここだ」
「……何が」
「音の基点」
イェルグは膝をつき、手袋を外して土を払った。丁寧でも乱暴でもない動き。作業だった。
「反復音響現象。原因不明。意思なし」
淡々とした説明。
「記録は?」
「残ってない」
「死者は?」
「分からん」
鐘の音が、三拍鳴る。
「分からない、のに……?」
「だから音だけが残った」
イェルグは符を取り出し、地面に置いた。時間を測るように、懐中時計を確認する。
「弔いが行われなかった死があると、音が出る」
「弔い……」
「言い方の問題だ」
イェルグは顔を上げない。
「区切りだ。処理だ。記録だ」
「……それ、人の話ですよね」
「音の話だ」
線を引くような言い方だった。
鐘が鳴る。
同じ強さ。
同じ間隔。
「祈らなくて、いいんですか」
「要らん」
「名前も?」
「要らん」
イェルグは符を並べ、結界を組む。音の周期に合わせて、正確に。
「鳴るはずだった音が、遅れて鳴ってるだけだ」
「でも」
「でも、は処理の邪魔だ」
ルーネは口を閉じた。
鐘の音が、少し遠くなる。
「止まるんですか」
「封じるだけだ」
「消えない?」
「消す理由がない」
最後の符を置く。
音が、ぴたりと止まった。
静寂が落ちる。
「……終わりですか」
「終わりだ」
イェルグは立ち上がり、土を払った。
「記録は?」
「反復音響現象。封印済み。被害なし」
「それだけ?」
「それだけだ」
谷間に、風が通る。
鐘は鳴らない。
「先生」
「何だ」
「ここで……誰か、死んだんですよね」
イェルグは少しだけ考えてから答えた。
「死んだかどうかは分からん」
「でも、鳴るはずだった」
「そうだな」
それ以上は、言わなかった。
二人は集落を離れる。
背後で、何も鳴らない。
ルーネは一度だけ、振り返った。
音のない鐘楼は、ただの建物だった。
鳴るはずだった音は、
もう聞こえなかった。