検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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残響域

第九十三話 残響域

 

集落を離れても、耳の奥が静かにならなかった。

 

音が鳴っているわけじゃない。

ただ、鳴っていたという感覚だけが残っている。

鐘の余韻に似ているが、実際の余韻よりも粘つく。

 

「……先生」

 

歩きながら、ルーネが言った。

 

「さっきの」

 

「終わった」

 

即答だった。

 

「でも、まだ――」

 

「聞こえてない」

 

イェルグは振り返らない。

事実確認だけを置くような口調だった。

 

「聞こえてるなら、問題だ。聞こえてないなら、それでいい」

 

街道に戻る。

石の感触が靴底に戻り、足音がはっきりする。

 

「さっきの音、俺には……」

 

「余韻だ」

 

被せるように言われて、ルーネは言葉を飲み込んだ。

 

「音の怪異はな、意思を持たない」

 

イェルグは歩調を緩めない。

 

「呼ばない。求めない。訴えない」

 

「……でも、あれは」

 

「鳴ってただけだ」

 

冷たい、切り分けだった。

 

丘を越えた先、古い石橋がある。

水は浅く、流れも緩やかだが、橋脚の下に影が溜まっている。

 

イェルグは橋の手前で止まった。

 

「ここから先が、残響域だ」

 

「……さっきの、続きですか」

 

「続きじゃない」

 

否定は早い。

 

「似た条件が重なっただけだ」

 

ルーネは橋を見た。

何も見えない。

だが、足を踏み出すのが、ほんの少しだけ億劫だった。

 

「音は、残る」

 

イェルグは橋脚を指差す。

 

「物より長くな」

 

「でも、鳴ってないですよ」

 

「鳴らないから厄介だ」

 

イェルグは橋の中央まで進み、立ち止まった。

 

「耳じゃない。体で感じる」

 

ルーネも続く。

その瞬間、足元の石が、微かに震えた気がした。

 

「……っ」

 

「今だ」

 

イェルグは淡々と言う。

 

「今、何拍だ」

 

「え?」

 

「数えろ」

 

ルーネは息を止め、意識を集中させた。

 

――一。

――二。

――三。

 

何も鳴らない。

なのに、間が分かる。

 

「……三拍」

 

「正解だ」

 

イェルグは頷いた。

 

「ここには、音が落ちている」

 

「落ちて……?」

 

「鳴らなかった音だ」

 

説明は短い。

 

「橋の落成式。鐘を鳴らす予定だった。だが鳴らなかった」

 

「どうして」

 

「死人が出た」

 

ルーネは息を呑んだ。

 

「工事中に落ちたか、押されたか。理由はどうでもいい」

 

イェルグは橋脚に符を貼る。

 

「問題は、その死が処理されなかったことだ」

 

「……弔い、ですか」

 

「それも含めて」

 

イェルグは符に小さく線を引く。

 

「音は、区切りのために鳴る」

 

「区切れなかったから、残った」

 

「そうだ」

 

橋の下で、水が流れる。

規則正しいはずの音が、少しだけ不規則に聞こえた。

 

「先生」

 

「何だ」

 

「さっきの集落と、同じ……?」

 

「似ているが、違う」

 

イェルグは即座に否定する。

 

「あれは時間だ。これは場所だ」

 

「時間……?」

 

「鳴るべき時に鳴らなかった」

 

符が、淡く光る。

 

「だから、今も待っている」

 

「何を」

 

「鳴ることを」

 

ルーネは喉が乾くのを感じた。

 

「……鳴らしてやることは、できないんですか」

 

一瞬、空気が止まった。

 

イェルグは、ゆっくりと顔を上げた。

 

「できる」

 

「じゃあ――」

 

「やらない」

 

断言だった。

 

「鳴らせば、意味が生まれる」

 

「意味……」

 

「意味は、呼ぶ」

 

イェルグは符を剥がし、結界を完成させる。

 

「音の怪異は、意味を与えた瞬間に変質する」

 

水の音が、元に戻る。

 

「これは、鳴らなかった音だ」

 

「……それでも?」

 

「それでも、だ」

 

イェルグは橋を渡り切った。

 

「処理は終わりだ」

 

ルーネは、最後にもう一度、橋を見た。

何も鳴らない。

だが、確かに、三拍の間だけが残っている。

 

「先生」

 

「何だ」

 

「……音って、優しいですね」

 

イェルグは、ほんの一瞬だけ考えた。

 

「だから危険だ」

 

それだけ言って、歩き出した。

 

背後で、何も鳴らない。

それでも、鳴るはずだった音は、確かにそこにあった。

 

次に鳴るのは、

別の場所だ。

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