第九十四話 鳴らなかった名前
依頼書は短かった。
橋の下で、声が返る
夜間、作業員が近づけない
実害は未確認
「未確認、か」
イェルグは紙を畳み、鞄にしまう。
評価も感想もない。
「確認するだけですね」
ルーネの言葉に、イェルグは頷いた。
「そうだ。音の案件は、ほとんどそれで終わる」
街道を外れ、川沿いの獣道を進む。
昼間でも薄暗い。木々が密で、風が通らない。
「……先生」
「何だ」
「“声が返る”って」
「エコーだ」
即答。
「人は、意味を探す」
それだけで説明を終えた。
橋は小さかった。
石造りで、二人が並べばいっぱいになる幅。
古いが、崩れそうではない。
「ここだ」
イェルグは立ち止まる。
「鳴らすな」
「鳴らす……?」
「呼ぶな、話すな、名前を言うな」
ルーネは喉を鳴らした。
橋の中央に立つと、音が変わる。
水音が、ほんの一拍遅れて返ってくる。
「……先生」
「今度は、数えるな」
イェルグは橋脚を覗き込む。
「感じるだけだ」
ルーネは目を閉じた。
何も聞こえない。
なのに、呼ばれている気がする。
「……誰かが」
言いかけて、止まった。
「言うな」
イェルグの声は低い。
「それは、“誰か”じゃない」
符が、一枚、橋脚に貼られる。
「これは、人の声じゃない」
「でも、声に……」
「似ているだけだ」
イェルグは淡々と続ける。
「昔、ここで名前が呼ばれた」
「……落ちた人ですか」
「違う」
否定は短い。
「落ちた“後”だ」
ルーネは、背筋が冷えるのを感じた。
「名を呼んだのは、残った側だ」
「助けを……」
「確認だ」
イェルグは符に線を足す。
「本当に、いなくなったのかどうかの」
水面が揺れる。
揺れに合わせて、音が“返る”。
――……な……
――……な……
意味のない、輪郭だけの音。
「……名前」
ルーネは、思わず口に出しそうになる。
「ルーネ」
その瞬間、イェルグの手が伸びた。
肩を掴まれる。
「呼ぶな」
力は強くない。
だが、逃げ場がない。
「返るぞ」
「……!」
音が、少しだけ大きくなる。
――……る……
――……る……
「先生……!」
「見るな。聞くな」
イェルグは符を一気に貼り終え、短い詠唱を行う。
「これは、名前になれなかった音だ」
風が通り、空気が変わる。
音が、消える。
橋の上には、水音だけが残った。
「……終わり、ですか」
「確認完了だ」
イェルグは符を回収する。
「処理は不要」
「倒さなくて、いいんですか」
「倒せるものじゃない」
淡々とした答え。
「鳴らなかった音は、鳴らないままにしておく」
橋を渡りきる。
ルーネは、振り返らなかった。
振り返れば、きっと――
自分の声が、返ってくる気がしたから。
「先生」
「何だ」
「さっき……僕の名前を」
イェルグは歩いたまま言う。
「呼びそうだった」
「……はい」
「次は、もう少し遅い」
それは叱責ではなかった。
予測だった。
「音は、慣れると近づく」
「じゃあ……」
「近づいたら、切れ」
イェルグは一度だけ、立ち止まった。
「それが、検死官のやり方だ」
再び歩き出す。
背後で、橋は沈黙している。
だが、鳴らなかった名前は、
まだ――どこかに残っている。
次は、
もっと人に近い音だ。