第九十五話 反響の由来
橋を離れてしばらく歩いたところで、イェルグは足を止めた。
川の音が、もう遠い。
「先生」
ルーネが声をかける。
「さっきの、あれ……」
「気になるか」
「はい」
イェルグは頷き、煙草に火をつけた。
深く吸い、ゆっくり吐く。
「正式な名前はない」
最初の言葉は、それだった。
「音の怪異は、だいたいそうだ。
呼び名は土地ごとに違う」
「さっきのは……?」
「反響(エコー)
残響
返り声
――呼び戻し、という所もある」
淡々と並べられる名称。
どれも、原因ではなく“現象”だ。
「共通しているのは、一つ」
イェルグは煙を払う。
「人が、確かめたがった場所に生まれる」
「確かめる……?」
「生死だ」
短い。
「人は、死を見届けられないと、声を使う」
ルーネは思い出す。
橋の上で、呼びそうになった自分の声を。
「名前を呼ぶのは、確認行為だ」
イェルグは続ける。
「そこにいるか。
返事があるか。
まだ、繋がっているか」
「……返事が、あったら」
「安心する」
即答だった。
「返らなくても、人は呼び続ける」
煙草が赤く光る。
「その“繰り返し”が、場所に残る」
「残る……?」
「音じゃない」
イェルグは指で地面を示す。
「期待だ。
返ってきてほしい、という圧だ」
ルーネは、息を飲む。
「それが……声になるんですか」
「似たものになる」
イェルグは言い直した。
「人の声を、真似る。
意味はない。
意図もない」
「ただ、返す」
「そうだ」
だから危険なのだ、とイェルグは言わない。
言わなくても、分かる。
「さっき、俺が止めた理由は分かるな」
「……名前を呼ぶと」
「自分の確認を、始める」
イェルグは視線を向ける。
「“ここにいるか”じゃない。
“ここにいてほしいか”だ」
ルーネの喉が鳴る。
「それを始めた人間から、近づく」
「近づいて……?」
「近づいて、残る」
それ以上は言わなかった。
煙草を踏み消す。
「だから処理はしない」
「……放っておくんですか」
「放っておく」
「でも……」
「倒す理由がない」
イェルグの声は変わらない。
「人が呼ばなければ、ただの場所だ」
ルーネは黙った。
「検死官の仕事は、死因を確定することだ」
イェルグは歩き出す。
「生きている者の不安を、消すことじゃない」
「……」
「混ぜるな」
それは忠告だった。
しばらく無言で歩く。
「先生」
「何だ」
「……もし、呼び続けたら」
イェルグは少しだけ考えた。
「音は、はっきりする」
「それから」
「“名前みたいなもの”になる」
ルーネは背筋が冷えた。
「なったら……」
「次は、別の分類だ」
それは、次の段階を示す言葉だった。
「だから、最初で切る」
イェルグは振り返らない。
「鳴らなかった名前は、
鳴らないうちに離れる」
川の音は、もう聞こえない。
だがルーネの耳には、
何かが“返らなかった”感触だけが残っていた。
次はきっと、
もっと返事に近い怪異が来る。
――そんな予感だけが、
静かに、胸に沈んでいた。