第九十六話 返らない声
依頼は短かった。
場所、現象、被害なし。
確認のみ。
イェルグはそれを聞いて、特に表情を変えなかった。
「鳴いてないなら、仕事じゃない」
馬を降り、荷を下ろす動作は正確で、無駄がない。
冷えている、というより、温度を持ち込んでいない。
ルーネはその背中を見ながら、少しだけ歩幅を調整した。
場所は、切り立った岩に囲まれた旧道だった。
かつて街道だった痕跡はあるが、今はほとんど使われていない。
「ここで、兆候があるそうです」
「声が返ったことは?」
「……ない、と」
「なら問題ない」
イェルグは岩肌に触れ、耳を澄ます。
目を閉じない。
集中しているのではなく、確認しているだけだ。
「先生」
「何だ」
「もし、今……」
「鳴らない」
被せるように言われた。
「今日は、鳴らない」
断言だった。
風が吹き抜ける。
草が擦れる音。
靴底が小石を踏む音。
どれも、返らない。
「音の怪異は、静かなときほど分かりやすい」
イェルグは淡々と言う。
「鳴る場所は、“足りない”」
「足りない……?」
「確認が」
ルーネは、喉の奥に言葉が溜まるのを感じた。
呼んでみたい、という衝動ではない。
ただ、確かめたい。
ここに、何もいないことを。
「やるなよ」
イェルグは振り向かずに言った。
「……はい」
「声を出すな。名前もだ」
それ以上、説明はない。
二人は道を一周し、岩陰も確認した。
何もない。
記録に残すほどの現象もない。
「終わりだ」
イェルグは帳面に短く書きつける。
《反響なし。
呼称不要。
経過観察》
「……これで、いいんですか」
ルーネは思わず口にした。
「何を期待してる」
「いえ……」
期待していたわけじゃない。
ただ、何も起きなかったことが、少しだけ落ち着かない。
「怪異は、起きてから対処するもんじゃない」
イェルグは帳面を閉じる。
「起きないように、人を動かすのも仕事だ」
「検死官なのに?」
「だからだ」
視線が一瞬だけ、ルーネに向いた。
「死んでからじゃ、遅い」
その言葉は冷たい。
だが、突き放すためのものじゃない。
ルーネは、それを理解しきれないまま、頷いた。
帰り道。
岩場を抜ける直前、風が一度、逆流した。
――ほんの一瞬。
何かが、言いかけた気配。
ルーネは足を止めかけて、思い出す。
返事は、選べ。
相手を、選べ。
何も言わない。
ただ、歩く。
後ろで、イェルグが小さく言った。
「今のは、違う」
「……何がですか」
「風だ」
それだけ。
だが、イェルグは一度だけ振り返り、岩場を見た。
冷たい目で。
仕事の目で。
「まだ、名もない」
そう言って、歩き出す。
ルーネはその背中を追いながら、思った。
――名がつく前。
――返事が生まれる前。
その“前”に立ち会うのが、
検死官の仕事なのだと。
そして、いつか。
返ってしまう声に、
自分がどうするのか。
まだ、答えは出なかった。