検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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残響の来歴

第九十七話 残響の来歴

 

翌朝は早かった。

夜露が草を重くし、空気は澄んでいる。音が、よく通る朝だ。

 

イェルグは火を使わず、乾いたパンを割った。

噛む音すら抑えるような食べ方をする。

 

「昨日の場所」

 

ルーネが切り出す。

 

「……あれ、何だったんですか」

 

イェルグはすぐには答えなかった。

水筒を傾け、喉を潤し、口元を拭う。

一つ一つが、説明の前の動作だった。

 

「通称はいくつかある」

 

ようやく、言う。

 

「返り声、残響喰い、谷の子。地方で呼び名は違う」

 

「正式名は」

 

「ない」

 

即答だった。

 

「名前を付けるほど、形を持たない」

 

ルーネは歩きながら耳を澄ます。

朝の音は多い。鳥、風、布の擦れ。

だが、返ってこない。

 

「エコー……反響、ですよね」

 

「近いが、違う」

 

イェルグは旧い石標の前で立ち止まった。

文字は削れ、読めない。

 

「反響は、元の音がある。距離と硬さの問題だ」

 

「じゃあ、あれは?」

 

「残り物だ」

 

ルーネは眉をひそめる。

 

「音の……残り物?」

 

「呼ばれたが、返されなかった声」

 

静かに言う。

 

「昔、ここは通り道だった。夜も人が通った。

名を呼ぶ。合図を出す。返事を待つ」

 

イェルグは石標を指でなぞる。

 

「崩落で道が潰れた。人が死んだ。

呼び声だけが、行き場を失った」

 

「声が……残るんですか」

 

「残ると思った人間がいた」

 

そこが重要だ、と言外に含ませて。

 

「信じられた声は、居場所を持つ」

 

ルーネは息を呑んだ。

 

「じゃあ、あれは……」

 

「怪異は、音じゃない」

 

イェルグは歩き出す。

 

「返事を期待する構造だ」

 

昨日の警告が、ようやく繋がる。

 

「だから、鳴らないときほど分かりやすい。

誰も期待していない。誰も呼ばない」

 

「呼んだら……」

 

「育つ」

 

短い言葉。

 

「一度返った声は、次も返ると思われる。

思われたら、そこに“役割”が生まれる」

 

ルーネの喉が、無意識に鳴った。

 

「……返事、しちゃいけない理由」

 

「返事は、責任だ」

 

イェルグは振り返らない。

 

「返った声は、次を待つ。

待つものは、足りないものを集める」

 

「足りない……」

 

「声、温度、名前」

 

一つずつ、落とすように。

 

「最終的に、人が吸われる」

 

ルーネは思い出す。

返らないはずの、言いかけた気配。

 

「先生は……」

 

「俺は、何度か見てる」

 

淡々としているが、距離がある。

 

「返事をしたやつが、どうなるか」

 

ルーネは聞けなかった。

代わりに、別の問いを投げる。

 

「……倒せるんですか」

 

「壊せる」

 

間髪入れず。

 

「だが、壊す前に必ず起きる」

 

「何が」

 

イェルグは一度だけ、足を止めた。

 

「誰かが、呼ばれる」

 

風が吹く。

草が鳴る。

それでも、返らない。

 

「だから、名を付けない」

 

イェルグはそう締めた。

 

「名が付いたら、返事をしたくなる」

 

ルーネは、胸の奥が冷えるのを感じた。

 

検死官は、死を数える仕事だ。

だがこれは――

生きている声の、行き先の話だ。

 

「覚えておけ」

 

イェルグの声は、低い。

 

「音の怪異は、耳じゃなく、心で聞く」

 

「……はい」

 

返事をした。

今は、問題ない。

 

だが、ルーネは思う。

 

いつか。

自分が呼ばれたとき、

この返事を、選べるだろうか。

 

谷を抜けると、道は開けた。

朝の音が、世界に散らばっていく。

 

そのどれもが、

まだ――

返っていない。

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