検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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呼び水

第九十八話 呼び水

 

昼前、空は高かった。

雲は薄く、光は均一で、影がはっきりしない。

 

イェルグは歩調を変えない。

地図を確認し、現在地を測り、進路を決める。

それだけだ。

 

感想も、雑談もない。

 

ルーネは少し遅れて歩きながら、背中を見る。

昨日まで感じていた“温度”が、今日はない。

冷たい、というより――平坦だ。

 

谷を抜けた先、古い採石場跡があった。

切り出された岩肌が、半円状に並んでいる。

音が、集まりやすい地形。

 

「ここだ」

 

イェルグが言う。

 

「依頼書にあった場所ですね」

 

「“声が戻る”という報告」

 

戻る、という言い方。

返る、ではない。

 

採石場に入った瞬間、音の輪郭が変わった。

足音が、少し遅れて追いついてくる。

完全な反響ではない。

一拍、間がある。

 

「先生……」

 

「喋るな」

 

即座だった。

 

二人は無言で進む。

風が吹き、岩に当たり、低く鳴る。

その後で――

同じ低さの音が、遅れて混じる。

 

ルーネは唇を噛んだ。

今、声を出したらどうなるか。

想像が、簡単にできてしまう。

 

採石場の中央。

地面に、白い粉のようなものが散っている。

石灰だ。

 

「……儀式?」

 

「違う」

 

イェルグはしゃがみ、指で粉をすくう。

 

「道標だ。

声を失った場所は、人が何かを置く」

 

「何のために」

 

「呼ばれないために」

 

そのときだった。

 

「――ね」

 

音がした。

 

確かに、音だった。

意味はない。

高さも、性別も、定まらない。

 

ただ、距離だけが近い。

 

ルーネの心臓が跳ねる。

反射的に、声が喉まで上がった。

 

「返事をするな」

 

イェルグの声が、低く刺さる。

 

「……ね」

 

今度は、少しだけ違った。

さっきよりも、柔らかい。

 

ルーネは理解する。

これは模倣だ。

自分の中にある“呼ばれた記憶”を、なぞっている。

 

「……っ」

 

足元の石が鳴った。

それだけで、音が増える。

 

「ね、ね」

 

二つに増えた。

 

「位置は」

 

ルーネは、声を出さずに唇を動かす。

 

イェルグは指を立て、円を描く。

全方向。

 

「核はない」

 

「じゃあ……」

 

「構造だ」

 

イェルグは立ち上がる。

 

「ここ全体が、呼び水になってる」

 

「壊すなら」

 

「静かに」

 

イェルグは、布を取り出した。

厚手で、内側に細かな刺繍がある。

 

「耳、塞げ」

 

ルーネは従う。

音が、遠のく。

 

それでも――

内側から、響く。

 

「ねえ」

 

今度は、はっきりとした“距離感”があった。

すぐ隣に、立っているような。

 

ルーネの胸が、きつく締まる。

この声は、知っている。

 

過去に。

誰かが、誰かを呼んだときの声だ。

 

「……返したら」

 

思考が、勝手に動く。

 

「返したら、終わるんじゃないか」

 

その瞬間。

 

イェルグの手が、ルーネの肩を掴んだ。

強く、現実的な力。

 

「終わらない」

 

短く、断ち切る。

 

「始まるだけだ」

 

イェルグは歩き出す。

白い粉を、踏み消しながら。

 

布越しに、音が歪む。

数が、減っていく。

 

「ね……」

 

最後の一つが、長く伸びて――

消えた。

 

沈黙が落ちる。

 

耳の布を外すと、世界は普通だった。

風、足音、呼吸。

 

「……今のが」

 

「未成熟だ」

 

イェルグは淡々と答える。

 

「まだ、誰も返してない」

 

「じゃあ、もし」

 

「返したら、次は名を探す」

 

ルーネは、喉を押さえた。

 

「声だけで、ここまで……」

 

「だから冷たくやる」

 

イェルグは、振り返らない。

 

「情が入る前に、構造を壊す」

 

採石場を出る。

背後で、音は戻らない。

 

それでも、ルーネは確信していた。

 

これは終わっていない。

返事を待つ場所は、別にもある。

 

そして――

いつか、自分の声が呼び水になる。

 

その可能性だけが、

静かに、残っていた。

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