青年の足に絡んだツタ。それが繋がっていたはずの「本体」は、鋭く固い爪によって切り裂かれていた。
「本当に助かったよ。君がいなかったら危なかった」
青年は感謝の気持ちを込めて、獣人の少女の手を両手でしっかりと握った。
「え……あ、あの……!?」
少女の顔が見る見るうちに真っ赤に染まる。獣の耳がぴんと立ち、尻尾が大きく揺れた。
「どうかした? 顔が赤いけど、熱でもあるのか?」
「ち、違います! そ、その……そんな、まだお会いしたばかりなのに……」
少女は握られた手を見つめ、視線を泳がせる。
「? 君のおかげで命拾いしたんだ。本当に感謝してる」
青年は純粋な笑顔で、さらに手を強く握った。
「ああっ……! わ、私も……その、嫌では、ないですけど……」
少女は耳まで真っ赤にして、しどろもどろになりながら俯く。
「でも、お父様に紹介するとか、そういうことは、まだ心の準備が……」
「父親? 何の話だ?」
青年がきょとんとした表情を浮かべると、少女ははっとして顔を上げた。
「……もしかして、ご存知ない……んですか? この、両手で手を握るという行為の意味を……」
「意味? 感謝の気持ちを伝えるためだけど……」
少女は小さく呻いて、握られたままの手を見つめた。尻尾が力なく垂れ下がる。
「私たちの種族では……これは、求婚の意思表示なんです……」
青年の手が、ぴたりと止まった。
「え……えええっ!? きゅ、求婚!?」
青年は慌てて手を離し、数歩後ずさった。
「ご、ごめん! 知らなくて! 俺、そんなつもりじゃ……!」
「あ、いえ……わかってます。人間の方は、ご存知ないですよね……」
少女は寂しそうに微笑んだが、その表情のどこか名残惜しそうな様子に、青年ははっと気づいた。
彼女の耳が小さく伏せられている。尻尾の動きも落胆しているように見える。そして何より、さっきの「嫌ではない」という言葉——。
青年は深呼吸をして、顔の火照りを抑えながら口を開いた。
「あの……その、俺も君のこと、素敵だと思ってるんだ」
「……え?」
少女の耳がぴくりと動いた。
「だから、えっと……いきなり求婚はできないけど、もしよければ、一緒に食事でもどうかな? 君のことをもっと知りたい」
青年が恥ずかしそうに頬を掻くと、少女の顔がぱっと明るくなった。
「ほ、本当ですか……?」
「ああ。命の恩人でもあるし、その……君ともっと話したいと思ってたんだ」
少女の頬が再び紅く染まり、尻尾が嬉しそうに大きく揺れる。
「はい……! 喜んで、ご一緒させていただきます……!」
彼女は両手を胸の前で握りしめ、期待に満ちた瞳で青年を見つめた。
石畳の通りを並んで歩きながら、二人は少しずつ会話を交わし始めた。
「そういえば、君は何が好きなんだ? 食べ物とか」
「私は……お肉料理が好きです。特に香草で焼いたものとか……」
少女が答えると、青年の顔がぱっと明るくなった。
「俺もだ! この街の食堂、香草焼きが絶品なんだよ」
「本当ですか!? 私も……あ、でも、人間の方の味付けは少し薄いかもしれないって聞いて……」
「大丈夫、あの店は冒険者向けだから味が濃いめなんだ。きっと気に入ってもらえると思う」
少女の尻尾が嬉しそうに揺れる。青年もそれに気づいて、思わず笑顔になった。
「それに、俺も森の近くで育ったから、獣人の方々の文化は少し知ってるんだ」
「まあ……! じゃあ、月夜の踊りとかもご存知ですか?」
「聞いたことはあるけど、見たことはないな。いつか見てみたいと思ってた」
少女の頬がほんのり赤く染まる。
「それなら……今度、お見せできるかもしれません……」
二人の間に、静かだけれど温かい空気が流れた。
すれ違う商人が、二人の様子に気づいてにやりと笑う。露店の老婆が「若いっていいねえ」と目を細めた。
青年は照れくさそうに首筋を掻き、少女は耳を伏せながらも、嬉しそうに歩みを進める。
彼らの初々しい雰囲気に、街全体が優しく微笑んでいるようだった。
「——とまぁ、それからなんやかんやあってお前たちが生まれるんだけども」
父親は腕を組んで、満足げに頷いた。
「いや、はしょりすぎでしょ」
長女が呆れた顔で父を見上げる。
「きょうびそこらの本でも、もうちょいドラマチックよ?」
次女も頬を膨らませた。
「いや、母さんに聞かないとどこまで話したらいいか……」
父親が困ったように頭を掻いていると、ちょうどそこへ扉が開いた。
「あら、何のお話をしていたの?」
獣人の母親が部屋に入ってくる。父親は救われたように妻を振り返った。
「ああ、ちょうどいい。なぁ、俺たちの馴れ初めって、どこまで子どもに話していいと思う? ほら、あの初めてのデートの後の、森での魔物退治のこととか……」
「まだ早いわ」
即答だった。
「じゃあ、お前の実家に挨拶に行った時の、お義父さんとの決闘の——」
「まーだ早い」
「温泉街での事件は?」
「ぜんぜん早いです」
母親の耳がぴんと立ち、頬が微かに赤くなる。
「ちょ、ちょっと待って!」
長女が身を乗り出した。
「決闘!? 温泉街の事件!?」
「お父さんとお母さん、そんなことあったの!?」
次女も目を輝かせる。
「聞かせてよ! ねえ、お願い!」
「そ、それは……」
母親が尻尾を揺らして視線を泳がせた。父親も苦笑いを浮かべる。
「なぁ、少しくらいなら……」
「ダメです! あなた、調子に乗るとすぐ余計なことまで話すんですから!」
母親が真っ赤な顔で夫を睨むと、娘たちの好奇心はますます燃え上がった。
「絶対面白いやつじゃん!」
「お願い、ちょっとだけでも!」
両親は顔を見合わせて、揃って深い溜息をついた。
あの後も何度か両親にせがんだが、結局詳しい話は聞けないまま、娘たちは不満を抱えていた。
「ほんと、気になるよねー」
次女が頬杖をつきながら呟く。
「決闘とか温泉街の事件とか、絶対面白い話だよ」
「お父さん、昔は『伝説の探検家』って呼ばれてたんでしょ? お母さんもすごい戦士だったって聞くし」
長女も同意するように頷いた。
二人の父親はかつて数々の遺跡を発見し、多くの魔物から人々を救った英雄だった。そして母親は、その父を幾度となく窮地から救い出した、類稀な戦闘能力を持つ獣人の女戦士。
今では引退して、この穏やかな町で家庭を築いている。
「ねえ、ちょっと森に行かない?」
次女が提案した。
「気分転換に探検ごっことか」
「いいわね。お父さんたちの真似事でもしてみる?」
二人は町はずれの森へと向かった。普段から遊び慣れた場所だが、今日は少し奥まで足を伸ばしてみる。
「あ、見て! あんなところに洞窟」
長女が指差した先には、蔦に覆われた小さな洞窟の入口があった。
「入ってみよう!」
次女が先に駆け出す。洞窟の中は意外と浅く、すぐに行き止まりが見えた。
そこに、古びた石板が一枚、壁に立てかけられていた。
「これ……なんだろう」
長女が石板に触れると、その表面に奇妙な文字が浮かび上がった。文字は淡く光り、まるで生きているかのように蠢いている。
「お父さんたちに見せた方がいいかも」
次女が石板を抱え上げる。
二人は石板を持って家路を急いだ。
「お父さん、これ見て!」
娘たちが石板を抱えて帰ってくると、父親は居間で冒険記録の整理をしていた。
「ん? どうし——あっ……」
石板を一目見た途端、父親の顔が微妙に引きつった。
「これ、森の洞窟で見つけたの! 何が書いてあるの?」
「え、えーっと……これは、その……」
父親は視線を泳がせ、咳払いをした。
「元あったところに戻してきなさい」
「えー! なんで!?」
「いいから! 早く戻してこい!」
普段は何でも答えてくれる父が、珍しく頑なに拒否する。
「じゃあお母さんに聞いてみよう」
次女が台所へ向かうと、母親が夕食の準備をしていた。
「お母さん、これ——」
「きゃっ!?」
母親が石板を見た瞬間、耳がぴんと立ち、顔が真っ赤になった。
「あ、あなたたち! これ、読めますか!?」
必死な様子で尋ねてくる。
「全然読めない。なんか変な文字がいっぱい」
「そ、そう……読めないのね……」
母親はほっと胸を撫で下ろし、石板を娘たちから受け取った。
「これは預かっておきます。危険なものかもしれないから」
「えー! お父さんもお母さんも、なんで教えてくれないの!?」
娘たちはぶつくさ文句を言いながらも、結局諦めて寝室へ向かった。
子どもたちが眠りについた後、寝室で夫婦は向き合っていた。
「まさか、あんなところに残ってたなんてな……」
父親が苦笑する。
「あれ、俺が独身時代に買った……その、獣人族の成人向けの本だったんだ。石板版の」
「内容も、かなり……その、激しいものでしたわね」
母親が扇で顔を仰ぐ。耳が熱を持っているのがわかる。
「悪い、ちゃんと処分したつもりだったんだが……」
「いえ……むしろ、久しぶりに体がほてりまして……」
母親がそっと夫の方を見る。尻尾がゆっくりと揺れていた。
父親は妻の様子に気づいて、そっと手を伸ばした。
「子どもたちは、もう寝てるよな?」
「ええ……ぐっすりと」
二人の手が重なり合う。
そして、ランプの灯りが静かに消えた。
——その後のことは、読者の皆様のご想像にお任せいたします。
ぼくは こういうのが すきです!