蒼を名に冠す、君を。   作:夜月詠

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Chapter 4
サマーレコード・ボウライン Ⅰ


 夏は一層の隆盛を極めていた。空高く登る太陽は、じりじりと焦げ付く様な絶望的な熱で地上を照らす。灼熱の星の、その輝き。

 窓から除く蒼い空は、外出する気力さえ焼き尽くした。

 

「悪霊……おい、悪霊。まだ寝てるのか?」

 

 リビングの中央で、丸く浮かぶ月のように眠る彼女の姿。

 永遠に変わる事の無い、蒼と白の夏服の彼女。瞼を閉じて、死んだ様に──余りにも静かに眠る、彼女の姿。もう昼前だと云うのに、彼女は未だ眠っていた。

 

 近頃はこんな風に、昼間まで眠り込んでいる事が増えている。夜更かしの種でも見つけたのだろうか。

 

「……ぁ、えと……うん、今……起きた……大丈夫……うん」

 

 瞼を擦る様な動きをしながら、彼女はん、と僅かな声を漏らして身体を伸ばした。ぐ、と腕や首筋を伸ばして、ふわふわと頼りない口調で宙を舞う。

 

「……ねむ……今、何時……?」

 

「時計くらいは自分で見ろ。……11時だ」

 

 少し早いが昼食を取る。西瓜は数日前に片付け終えた為、本日は栄養ゼリーとサプリメントという何時もの食事である。

 サプリメントの硬さを、栄養ゼリーの流動性で胃に流し込んで一息付く。

 

「……なんだ、悪霊」

 

 ふと、彼女がこちらを見つめている事に気が付いた。

 呆れた様な、ため息交じりの様な温かくも冷たい眼。

 

「今日もそんなご飯なの? 味気なくない?」

 

「味気なんて求めてない。必要な栄養素とエネルギーを摂取できれば、それで良い」

 

「ふーん」

 

 自分で聞いてきた癖に、素っ気のないその返答。未だに良く分からない彼女の心象を背後に、足早にアトリエへ向かう。

 本日は未だ制作中。我が家の庭から見た瀬途の海を描いている所だ。下書きは終わった為、これから色を載せていく段階だった。

 

「……何か用か?」

 

「いや、別に。なんだか、今日は明るい色を使うんだなって思っただけ。明るくて……なんだか夏って感じがする」

 

 確かに、今日の絵の具は色の比率をいつもと変えている。重ね塗りによる色の重なりと、絵の具そのものの色彩がいつものそれと微妙に異なるのは事実だ。

 

「ふん。最低限の審美眼はついたらしい」

 

「ふふん。もう2週間くらいは一緒に居るからね。そのくらい分かるって」

 

 胸を張る彼女のその姿が、何処か滑稽で思わず笑い声が溢れた。

 

「あー! 鼻で笑った!」

 

 憤慨した、とでも言いたげな表情を浮かべ彼女は僕の視界をぐるぐると飛び回る。物質的に干渉し得ないその特性を生かして、僕の頭とカンヴァスの間の僅かな隙間に彼女の顔が割り込んできた。

 

 薄い茶色に色付いたアーモンド色のヘーゼルアイ。青褪めた死蝋の如き真白の肌に、繻子地味た濡羽の黒髪。間近で見ると、その異常さがより際立つ。不可思議な光の当たり方と、影の落ち方。

 物理的な構成は全く普通だと云うのに、光と影だけが異常性を持っていた。

 

「邪魔だ。早急に退けろ、カンヴァスが見えない」

 

「やだ」

 

 手にした絵筆のその先で、彼女の頬を撫でて無理矢理にでも退けようとして──筆先が、彼女の頬を通り抜ける。

 

「……チッ」

 

 あまりにも鮮やかで、だからこそ。

 瞬間、忘れていた彼女の死の証左。もう彼女は何にも触れられない。何にも干渉する事はできない。だって彼女は死んでいて、此処に在るのは何かの間違いか、或いは奇跡なのだから。

 重力すら無視する彼女は、もう死んでいるのだから。

 

 幾ら生きている様に見えても。幾ら鮮烈な色彩を放っていても。

 もう、死んでいるのだから。もう、死んでしまっているのだから。

 

 一瞬の静寂。煩いほどに鳴き喚く蝉時雨が、冷たく響く様な深い沈黙。

 

「……えっち」

 

 頬の辺りを掻きながら、彼女は揶揄う様な笑みを浮かべた。

 

「殺すぞ」

 

(ひと)を変な目で見ちゃってさー、剰え触ろうとするなんて」

 

 口角が引き攣るのを実感する。完全に人を揶揄う精神状態に切替わった彼女は、そのまま妙な顔付きで僕の周囲をふらふらと飛び回る。

 

 意地の悪そうに細められたヘーゼルアイの、その色彩。物理法則を無視して上下逆さまのまま僕の視界に割り込んでくるその姿。

 上下逆さまなら、髪は真下に垂れるのが道理だろうに常と変わらないまま反転した彼女の下側──僕にとっての天井方向に向いている。不条理極まり無い、その姿。

 物理法則を無視する異常性。その歪みに、眉がピクリと動くのを知覚した。

 

「邪魔だ、退けろ悪霊。テレビでも点けててやるから、大人しくしていろ」

 

「えー……もう、仕方ないなぁ。そんなに言うならテレビでも見てるよ」

 

 妥協してあげるとでも言いたげな笑みで、彼女はふわふわと飛び始めた。ふわふわ、ふらりふらりと大気の中を泳ぐ。それはさながら魚の様に。

 

「………って、そういえば、今日じゃん! ねぇ沙也君!」

 

 まただ、また始まった。彼女の我儘、彼女が僕の家に棲み着いた原因である『やりたい事』が。

 

「……まだ、絵を描いている途中なんだが」

 

「あぁ、それは多分大丈夫。夜までまだ時間はあるし、君なら出来るでしょ?」

 

 話が見えない。あまりにも不明瞭に過ぎる。要領を得ないその口振り。既に決まった出来事かの様な、断定的性を帯びた言葉の音程に思わず眉間を抑える。

 

「……なんだ」

 

「今日の夜、夏祭りがあるからさ、行こうよ」

 

「勝手に行ってろ。僕は行かない」

 

「やだ。一人は淋しいじゃん。お祭りって、一人で行くと孤独感がより際立つって事知ってる?」

 

 引く気のないその声色と、キラキラと瞳の輝く満面の笑み。

 居心地の悪くなる、彼女の色彩のその発露。

 死人の癖に、あまりにも生き生きとしているから。その光に、僕の生き方が暗く照らし出される様で。

 

「……はぁ……分かった。暫くは大人しくしていろ。僕が描き終わり次第、夏祭りに行ってやる」

 

「やった! さっすが、話分かるじゃん!」

 

 彼女は嬉しそうな声を出すと、そのままふらふらと天井を突き抜けて外に出ていった。

 

「おい、テレビは良いのか!?」

 

「お祭りまで寝てるから良い!」

 

 寝たりなかったのか、態々太陽のお膝元で眠るらしい。この明るさでよくもまぁ、眠りこけられる事だ。

 

「……後8時間もあれば、終わるか」

 

 踵を返してアトリエに戻る。西日の良く差し込む、海に面したその室内。クーラーの稼働で陽の明るい部屋とは思えない程に冷えて涼しいその世界で、独り孤独に筆を取る。

 左手に乗せたパレットには、蒼と緑を始めとした絵の具が各種。

 明るい色合いの、庭からの瀬途の海を描き出す。

 

 無心。ただ只管に、没頭して行く。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「……もう▓▓なのかな」

 

 彼の家の、屋根の上。美しい白の建物(はこ)の、その屋根の上で、蒼い空と海を眺めながら独りごちる。

 感覚のない自分の身体、その指先と掌に目を落とす。視覚()聴覚(みみ)しか機能し得ない、虚ろな身体。

 意識だけが現世にしがみついた様な、不可思議な有様。

 

 死んでいるのに、生きている様に現世に残る。彼以外、誰の目にも写らないのに、有り続ける。その矛盾。

 

「楽しかったな。沙也君、偏屈だけど何だかんだ付き合いは良いし。絵は上手いし。……綺麗なものを、一杯見たし、やりたい事も、大体終わったし」

 

 だから、此処にある私は何なのだろう。

 生も、死も。何もかもを置き去りにして、自分自身しか残っていない私は何なのだろう。現世にしがみつく鎖が、一つ解ける度に揺らいで行くのが自覚できる。

 私にはもう、意識(わたし)しか残っていないのに。

 

「なんで──死んだんだろう」

 

 あの時私を轢いた人に、悪意があったのか、無かったのか。事故だったのか、故意だったのか。私には死んだ瞬間の、その記憶が無いのだから。

 

 覚えている事と云えば、背後からの唐突な衝撃と、一瞬だけ感じた息の詰まり。アスファルトに照り返す、赤信号の不気味な光と降りしきる雨の冷たさ。肌を包む、初夏の不快なじとりと湿った暑さ。そんな刹那の一瞬で、私は死んだのだ。

 そうして気が付けば、視覚と聴覚以外の何もかもを失った意識(わたし)だけが存在した。

 

「────あと、どのくらい、なのかな。もう少し、君の絵を見たかったのに。偏屈な君の、▓▓を、もっと見たかったのに」

 

 どうして別れというものは、こんなにも哀しくて辛いのだろう。

 私は消え去る側なのに、どうしてこんなに悲しいのか。それは、生きている者の特権だと云うのに。

 

 見つめる空と海の蒼さ。振り注ぐ陽光の、その白さ。

 ──君の▓を思いながら、薄れて行く眠気の衝動に身を任せる。

 

 多分、また起きられるから。

 

 多分、まだ起きられるから。

 

 まだ、君と一緒に居られるから。

 

 まだ残っている鎖の、その重さと共に白昼に微睡む。

 屋根を焼く白光の、その光がいつか浴びた冷たい雨を幻視させる。薄れて行く意識の端で、彼の描く蒼の鮮烈な色彩が暗中の月の様に、色鮮やかに思い起こされた。

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