蒼を名に冠す、君を。   作:夜月詠

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サマーレコード・デュオ Ⅳ

 雨の礫の響めく旋律。高らかに揺れる星の(おと)

 草原を地に薙ぎ倒す雨粒の重さが耳に響く。潮騒の様に、深く脳髄の海に揺れ響いて、身体を強張らせる緊張を溶かす。

 

 僕の家の、そのアトリエ。虚空に浮いたまま虚ろに眠る彼女の下に、五芒星の幾何学図形が描かれていた。顔料は僕の持っていた墨と、彼が取り出した霊水だ。

 

「──では、術を始めよう」

 

 冷厳に、荘厳に。彼の声が静まりきったアトリエに響き渡る。

 五芒星の中心に浮かぶ彼女を前に、安倍立夏は目を伏せたまま立ち尽くす。冷たい声色と、静まりきった厳粛な気配。

 

「錦木様、此方を」

 

 彼の背後に控えていた縁が、無表情のままに振り返って和紙と小刀を取り出して僕に手渡した。帰路にて、何をやれば良いのかは教えられている。僕の血と名を縁とし、彼女と結び付ける契約呪法。

 

 寿命を削り取り、彼女の存在維持に利用する。

 陰陽道と云うより、外法の類だと安倍立夏は嗤っていた。

 

「始めてくれ。こちらに問題は無い」

 

 指先を薄く傷付けて、和紙に墨の名を刻みつける。鮮やかに過ぎる鮮血が、薄い紙を染め上げて、真っ赤に僕の名が描かれた。

 その紙切れを、彼に手渡す。

 

「良いだろう。これより、君の生命を削り取り、彼女に供給する。……けれど、これは飽く迄も延命に過ぎない。肝心の、彼女を繋ぎ止める(くさび)は君が撃つんだ」

 

 その言葉と共に、空気感が一変する。

 夏の蒸し暑い大気と、湿りきった空気の重さ。その熱気が、冷たく沈む。縊り殺された様な意識の凍結。呼吸すら凍るほどの、空気の清浄。澄んだ清流の如く、澄み切った凍えるほどの空気感。

 

 吐き出す息が白冷めそうな程の、意識の鋭敏化。思考と知覚が研ぎ澄まされて行く幻覚。

 

「"安倍清明大明神、並びに、泰山府君は黄泉の諸神に願い奉る"」

 

 こぉ、と大気の響めく幻聴(おと)が確かに聞こえた。

 

「"伏して願うに、かの玄鑑を垂れて、この丹祈に答えよ。死籍を北宮において削り、姓名を南簡において記せよ"」

 

 とくん、と自らの裡に響く心臓の鼓動。全身の血流が熱を帯びて身体の外に流れ出して行く感覚。焔に包まれて燃え上がる様な、体温の上昇。知らずの内に、呼吸が荒れてガクリと膝が床に付く。

 

「────っ、ぁ……!」

 

 言われずとも、理解できる。これが、命を削り取る感覚。寿命(いのち)を削り、他者に分け与えるという行為。

 異常(オカルト)の中の異常(オカルト)。僕の常識を否定し超越する超常現象。

 

 ──14年の、余命宣告。

 

「"年を減じて算を増し、短く生くるとも確かに見んと畏み申す"」

 

 吹き荒ぶ風の錯覚。大気が歪み、夏が澱み、世界が静まり返って色彩が反転する。視界が歪み、感覚が(ゆが)み、僕の視界が異常を来す。色彩感覚が消失する。

 眼に写る世界が、黒と白の濃淡によってのみ描き出される。

 

「これ、は──」

 

 理由は不明。けれど、感覚だけで理解する。無理矢理に寿命を削り、彼女に引き渡したからだ。僕の生と彼女の死が、溶けて入り混じってしまったから。あらゆる感覚が、惑い歪み、捻れているのだ。

 

「一次的なものです。次第に戻りますよ」

 

 呼吸が荒れる。酸素に喘ぐ魚の様に、口をぱくぱくと動かして酸素を求める。肺で起こる酸素と二酸化炭素の交換が、けれど上手く行えない。

 

 チカチカと、目の端で星が舞う。思考が澱み、理性が砕け、何一つ考える事が出来ない。苦しいのに、辞められない。辛いのに、終われない。逃げ出して、放り出して、辞めてしまいたいのに、それでも逃げるなと砕け散った意識(ぼく)が叫ぶ。

 

 ──澱んだ視線の先で、彼女が眠っているから。

 

 白と黒に歪んだ世界の中で、蒼く鮮やかに浮かぶその輪郭。色鮮やかな、彼女の姿。失う訳にはいかない、僕の(いろ)

 その色彩を、その造形を、その存在を、鮮烈に、鮮やかに、美しく。カンヴァスに刻み描くまでは、終われない。

 

 勝ち逃げなんて許さない。轢いた責任を僕に取らせようと云うのなら、筆を取らせた責任を取ってもらう。

 

 彼女は、必要だ。必要なんだ、僕に。

 この命を、使う価値がある。

 

 鮮烈な理由なんて無い。鮮やかな理由なんて無い。どうでも良い日常の中で、過ごした時間が口惜しい。僕の虚ろと孤独に色彩を与えた、彼女の存在が消え去るのが許せないだけ。

 

「"──『泰山府君祭』、急急如律令"」

 

 最後の一節、朗々と紡がれていた言霊の連なりが途絶えて消える。僕の身体を包む熱量はそのままに、視界の隅で舞う星はそのままに。頭の重さと、指先の冷たさ。

 体調不良とは裏腹に、期待に踊る心情。

 

 願う様に見つめる、その視線の先に浮かぶ彼女の白影。白黒の世界の中に浮かぶ、たった一つ鮮やかな君。

 

「────ぁ、わた、し……」

 

「桜木ッ!」

 

 何もかもを忘れて、彼女の下に駆け寄る。

 触れる事の出来ない、永遠に悠い死者の君。死に絶えてしまった、彼岸の君。思わず伸ばした掌が、白く凍える指先が、彼女に触れる。すり抜けるだけだった筈の指先が、彼女の衣に確かに触れた。

 

「ぁ、沙也、君……? 何で、私……」

 

 指先に感じる、衣服の滑らかさ。繊維の感触、その向こうに在る肌の感覚。血肉と骨の、その確かさに目が丸くなる。

 

「待ってろ、今、お前を──」

 

 カンヴァスと、イーゼルを取り出す。構えるのは鉛筆。下書きから丁寧に。炭素の淡濃で君を描く。

 ────見る。その(かんばせ)の造形を。その瞳の虹彩を、瞳孔を、瞼のカタチを睫毛の生え方を。肌色の下に覗く、血管の蒼さと生命の赤。骨格を読む、筋肉を解体する。神経を解剖し、皮を解析し、脳裏に刻み込む。

 

 白と黒の濃淡で、桜木葵のカタチを刻み取りながら脳内にて載せるべき絵の具の色を考察する。この人間を描く為に、僕は何を為すべきか。その全てを、その悉くを、その一切を。解体し解剖し解析し、その果てに白紙の地平面に描き出すべく思考を廻す。

 

「なに、を──君は、もう人間を、描かないんじゃ……?」

 

「煩い、黙っていろ悪霊──僕を歪めたのは、僕に筆を取らせたのはお前だろうが──!」

 

 鉛筆の動作が加速する。跳ねる心臓と、荒れる吐息。思考が鋭敏に研ぎ澄まされて行く。冷たく澄んだ氷刃の如く、意識が何もかもを置き去りにして加速する。

 一秒を何十倍にも引き伸ばす思考の速度(はやさ)。秒針が動く度に、白紙のカンヴァスには炭素の細い線が刻まれて行く。

 

「駄目だよ、君は、もう二度と人の画を描かないんでしょ?」

 

 愉快。心を染め上げる色彩(かんじょう)は、ただその一色。

 画を描く事が楽しい。彼女を解体し、カンヴァスの小世界に刻み込むのがこの上なく、楽しい。

 

「あぁ、そうだな。だが、もうそんな信条(コト)は止めだ。僕は描く。君を、刻む為に」

 

 何故?

 

 ──もう知るか、そんな理由(もの)

 

『描く』と、僕がそう決めたから描くんだ。写実、印象、浪漫、具象、半具象──言い表す為の言葉なんて、何でも良い。分類なぞどうでも良い。君を描く。君の色彩を、君の生を

 刻みとって、描き出す。

 

「──こ、ふ、……っ!? ……馬鹿な……何処か、ら……!」

 

 夢中の内に、血が溢れる。何処だ? 口内に溢れる鉄錆の味と匂い。思考が止まる。澄んで加速していた思考が一気に鈍化する。打ち落とされた鳥のような墜落。あまりに急激な意識の滑落。

 外に向けられていた知覚が、一転して内に向けられる。

 

 出血の根源は。僕は何処を駄目にした。

 いや、そもそも。何故、血が? 吐血なんて、何処から。気管支か? 何故そんな所が。いつ駄目にした。何が原因だ。

 

「さ、沙也君!? ちょっと、どうしたの!?」

 

「……圧……血管系を使ったから……負荷を掛けすぎた……血に溶け込んだ……で……」

 

 小声で呟く安倍立夏が視界の端に見えた。口元に手をやり、探るように眼を薄く開いた彼は平常そのものの顔色で僕の方に向き直る。

 

「錦木君、一旦作業を中止し給え。血管系全体に負荷が掛かってる。経路(パス)を組んだ負荷だ。4時間ほど間を置くんだ」

 

 プツリと、何かがとぎれた音が聞こえた。共に、喉を塞ぐ窒息の感覚。燃えるような熱量と、肉を引き裂く鋭さが喉を駆け抜ける。

 喘鳴と共に吐き出したそれは、深紅に濡れた粘体。どろりと澱んだ血液。吐き出すように、零れ続ける。

 

「沙也君? ねぇ、返事してよ! 安倍さん、何が起きてるの!?」

 

 焦燥入り混じる彼女の声色と、これでもかと咆哮する心臓の鼓動が嫌に響く。

 

「簡単に言えば、君を起こす為に彼は生命力(じゅみょう)を使った。その反動だァ。肉体がまだ慣れてないから、血管系が内側から弾けてるんだよ。血を媒介に供給してるからねェ」

 

 淡々と、小切れよく言葉を紡ぐ冷たい顔立ち。黒髪に入り混じる、インナーカラーの白が闇夜に浮かぶ柳のように、恐ろしいまでに浮き上がる。

 

「余計な、事を、云うな……手を貸せ、すぐに作業に戻る……!」

 

 乱雑に口元を拭い、今度は絵筆を握り取る。

 ふぅ、と一息吐き出して強引に息を整えパレットに絵の具を乗せて行く。窓から差し込む僅かな光と、照明が垂れ零す真白の光を浴びて、宝石の如き色彩が絵の具に汚れたパレットの上でキラキラと煌めいた。

 

「もう何も言わないさァ。後は君達でやると良い。邪魔者は退散だ、馬に蹴られたくはないからねェ。リビングにでも居るから、終わったら来てくれ」

 

 彼はフラフラと頼りなさげに手を振って、縁を伴ってアトリエから姿を消した。

 

「漸く、調子が戻ってきたんだ……描ける。今なら。完璧に、描き取れる。僕の画が異能だと云うのなら、その成立を見届けろ……!」

 

 ガンガンと脳を叩く頭痛。どくりどくりと蝉時雨の如く鳴り響く心臓の鼓動。頬と眼に感じる熱と、身体の痛み。

 その一切を無視してカンヴァスに向き合う。視線は空に浮かぶ彼女と、手元を行き来して、速度は一切の変更なく作業は着々と進んで行く。

 

「寿命!? 何使ってるの!? 駄目だよ、君まで早死にしちゃうじゃん!」

 

 視界に割り込む彼女の姿。僕にだけ干渉する今の彼女に抱きしめられて、筆を振るうべき世界(カンヴァス)が見えなくなる。

 

「煩い、黙れ悪霊! 僕は僕の好きにする、自分の人生くらい、好きに使わせろ!」

 

 何の為に浪費しようが僕の勝手だ。僕の人生だ。僕の寿命だ。

 それを使うのに、一体誰に断る必要がある。

 

「お前のいない未来(これから)に、何の価値がある! 死んだように生きるのは、もう御免だ!」

 

 短くも輝かしい刹那の日々。逃避の果てに得た、輝かしい日々。その彩りを知って、その色彩を噛み締めて。なのに、それを失うなんて耐えられる訳が無い。

 君の居た過去(これまで)と、君の居ない未来(これから)。その落差に目眩すら憶えると云うのに。

 

「僕は君を描く。その選択が僕自身を裏切る事になるのだとしても! 君がいなきゃ、もう僕の人生にも価値がないんだから!」

 

 吐き出すように、言葉を紡ぐ。怒りすら滲んだ熱量と激しい音の連なり。身体を蝕む痛みすら無視して、言葉が連なる。

 

「それでも、駄目だよ。私は死人、私は過去、私は幽霊──もう終わってしまったものだから。そんなものに、生きている君が惹かれちゃ駄目だよ」

 

 諭すように、静かに紡がれる彼女の言葉。

 顔どころか衣服のカタチすら見えないのに、何故だかその表情を理解できた。

 泣きそうな笑み。涙を湛えた不細工な微笑み。

 

「……長生きなんて必要無い。短くても、必要なモノなあれば良い。お前が居れば、何も要らない。」

 

 筆を動かす。

 記憶の中にだけ在る、カンヴァスとその筆跡を頼りに。記憶だけを頼りに画を描く。

 

「な、何言ってるの!? 告白!? ねぇ、それ!! っていうか、私の言った事全然理解してなくない!?」

 

 困惑と羞恥と──言い表せない程複数の感情が綯い交ぜとなった跳ねるような声音。それと共に、ガバリと彼女の身体が跳ね消えた。重なっていた彼女の身体が、僅かに仰け反る。

 

 極至近距離、鼻頭まで触れ合いそうな程の顔の近さ。形のよい彼女の眼と、そのアーモンド色が良く見える。光の当たり具合によって、緑の滲む薄い色彩(まなこ)。僅かに桜を帯びた頬の血色。

 生者の様な、死者のカタチ。

 

 その眼を然と見つめて。

 

「お前の責任(せい)だ、悪霊!! 僕の人生を捻じ曲げたその責任を、取ってもらう!!」

 

 いつか彼女に言われた言葉を返す。

 

「──────馬鹿」

 

 彼女の向こう側にあるカンヴァス。その最後の一筆を、鮮烈に刻み描く。最後に乗せる色彩は、蒼。

 目の冴えるような。青い夏盛りの。

 

 染み入るような海空の蒼。

 最初に感じたその情動。彼女を象る、美しい色彩。

 

 その一筆と共に、画と彼女の変質を知覚した。先ほどまでの不確かさ、先ほどまでの不自然さが嘘のように彼女を構築する何もかもが、変革する。

 

「……君は、馬鹿だね。……本当に、馬鹿だよ。私のために、寿命まで削っちゃうなんて」

 

 不自然な光の当たり具合と、影の落ち方(ドロップシャドウ)が変質する。窓から差し込む僅かな光と、照明の白い灯り。そこから生じる自然な影。

 重力を無視した衣服の動きが、滑らかに変動する。

 

 ニスを塗られた絵画の様に、彼女の在り方が色鮮やかに変質する。死と生の境界線を水彩の如くぼやかして、一歩だけ此岸に踏み込んだ。そんな、奇跡。

 

「煩い、僕の勝手だろ」

 

 手中の筆の、その重み(かるさ)。震える心臓と、揺れる視界。確かな成功の実感と共に、彼女が口を開く。

 つと筋を引いて溢れる涙と、その頬の赤み。

 

「なんで、私を描いたの?」

 

 何故描いたのか。

 そんな分かりきった問の答えなぞ決まっている。陳腐にも程がある。何故描いたのか。答えはただ一つで良い。

 

「描きたかったから。……それ以外に、何か理由がいるとでも?」

 

 芸術とは、論理によって紡がれる感情だ。

 美しいものを作る為に、人は無限の研鑽と論理を以て世界を描く。

 

 どんな表現が最適なのか。どんな技法を用いれば良いのか。どんな道具を、どんな構成を──何処までも論理的に積み重ねて、理屈と論理の冷徹さで、情動(こころ)という温かみを造り出す。

 

 その矛盾こそが、芸術だ。

 

 その矛盾こそを、芸術と呼ぶのだ。

 

「お前を描きたかった。留めたかった。此処に、僕の元に。お前はどうだ、何がしたい」

 

 芸術家として、答えを出す。

 結局の所、僕にはこれしかないのだ。

 この心しか。この情動しか無い。この精神活動(こころ)こそが、僕なのだから。

 

「……まだ、やりたい事が幾つもあるんだ。いろんな所へ行きたい。いろんな物を見たい。いろんな物を食べて、遊んで、夏が終わって、秋が来て、冬になって、春にとどいても」

 

 ラムネ、サイクリング、海、夏祭り、ピアノの連弾。その程度で、彼女のやりたい事が終わる筈が無い。

 やたらめったら、鬱陶しい程に笑顔を撒き散らす彼女が、その程度の望みしか持っていない筈が無い。

 

 何れ消え去るから躊躇していただけ。

 口にしてしまえば、名残惜しくなってしまうから無視していただけ。未練を残さない様に、後悔を残さない様に目を逸らしていただけ。

 

 そんな妥協を、僕は認めない。

 

「……やりたい事があるんだ。まだ、幾つも。私はもっと、此処に居たい。もっと貴方の側に居たい。……君と一緒に、やりたい事が幾つもあるんだ」

 

 だから。

 その接続詞が、水面に浮かぶ波紋のように静かに響く。

 

「君と一緒に、居ても良いかな?」

 

 泣き出しそうな、その笑顔。不細工で、不格好で、けれど人間らしいその有様。その有様は、美しい。

 願いという欲望(エゴ)と、その汚濁。欲望という色彩は厭わしい。その汚濁は呪わしい。けれど、同時に。その混沌のなかに混ざる色は、美しい。僕は、その色彩にこそ、光を見た。

 

「あぁ、なんて言わない。……好きにしろ。僕がそうした様に」

 

 嫌になって投げ出した人間の醜さ。手を伸ばしてしまった彼女の美しさ。コインの表と裏の関係でしか無いものに、僕は何よりの価値を見た。

 

 醜い/美しい。

 

 人間は、そういう生き物だ。矛盾した生命だ。不合理な存在だ。けれど、それでも。向き合うだけの、価値はある。

 

 人は醜い。けれど、同時に美しい。

 眼前の彼女は美しい。美しいものがあったのだ。だから、他の人間にも美しいものはある筈だ。

 

 彼女の存在は特別でも、その願いは平凡だった。その平凡さの中で、僕の有り様は歪んだのだ。穏やかながら、暴力的な価値観の転変が、今を描いた。僕にもう一度、人間を描かせたのだ。

 

「そっか。うん。私もそうする──だから、先ずは一つ。やりたい事を叶えるね」

 

 そっと頬に添えられた彼女の掌。ひんやりと冷えた体温が、白い皮膚越しに伝わってくる。遠慮げに込められた力によって、僕の顔は真っすぐに彼女の方へ向けられた。

 

 視線が合う。薄い色合いをした瞳孔が、真っすぐに交差して沈黙する。

 

「私はずっと、友達が欲しかった。お父さんが転勤してばかりで、友達が出来た事が無いから。私はずっと、夏の夢を見ていた。本で読む様な楽しい夏休みなんて、経験した事が無いから。

 ──この願望の真実が、君に分かるかな?」

 

「孤独なのは嫌。本心はソレだろう」

 

 他人が介在する必要がある、という事だろうか。彼女のやりたい事は、一人で完結しながら、他者の存在を求めていた。

 故に、その本心は『一人は嫌』という事だろう。

 

「良く出来ました。花丸、何処かに書いてあげようか?」

 

「要らん。……それで?」

 

 彼女の戯言を鼻で笑いながら、続きを促す。悪戯っぽい笑みを浮かべた彼女はえー、と口にして再び話を始めた。

 

「友達が欲しい。楽しい日々を過ごしたい。そんな願いが、もう一つあるの。……恋人が欲しい、なんて。誰でも思う、普通の事でしょ?」

 

 そっと、首の後ろに彼女の腕が回る。ふわりと浮き上がった少女の身体に抱擁される。視界の端には、彼女の頭部。左側の頬に添えられた彼女の顔と、繻子の黒髪が視界を占有する。

 

「好きだよ、君の事が。理由は、必要かな?」

 

 抱擁の向こう側で、彼女がふと笑ったのが知覚できた。

 

「……感情に理屈なんて必要無い。表現には必要だが、その根本は、何でも良いんだ。重用なのは、感情(こころ)だろう」

 

 彼女の身体はひんやりと冷気を帯びている。夏の熱気を拒絶する、死人の在り方。息絶えて、それなのに現世に残る異常性。

 その抱擁は、確かでありながら、何処か遠くにも感じられた。

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