蒼を名に冠す、君を。   作:夜月詠

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Chapter 1
サマーレコード・ファンタズム Ⅰ


「──で、本当にそんなしょうもない事を?」

 

 西日の指し込む我が家にて。眼前には宙に浮かぶ悪霊の姿。

 蒼と白の夏服を纏う、忌々しくも美しい少女の造形(カタチ)。キラキラと星を湛えたヘーゼルアイを楽しげに細め、薄く笑みを浮かべてコクリと頷く。

 

 その所作の悉くは、生と死に対する反逆行為。

 死んでいながら生者よりも生者らしく。生きていながら死者よりも死者らしく。その矛盾を突き付けられる様で、座りが悪い。

 

「そう。ラムネ。良く冷えた奴を、暑いお日様の下で飲みたいの」

 

 一体、この世界の何処にお日様の下でラムネを飲みたがる幽霊がいるのだろうか。

 

「チッ……(うち)にラムネはそもそも無い。瓶ラムネなんて尚更だ」

 

 我が家の冷蔵庫に、ラムネなんて一瓶、一缶も無い。

 コーラや珈琲ならあるが、淡く透明に透いた炭酸はその気配の一欠たりと存在しない。僕はラムネより、コーラの方が好きなのだ。

 

「じゃ、買いに行こ? 付き合ってくれるんでしょ、私の『やりたい事』に」

 

「片手間で、と言っただろうが。今日はもう、外には出ない。……明日にしろ」

 

 西日は未だ蒼く輝く。夏は日没が遅い。長針が5番目を回ったとしても、まだまだ世界は明るいだろう。

 だが、今日はもう外に出る気力は無い。悪霊に追い回されたせいでヘトヘトだ。疲れ切っているから、もう泥のように眠りたい。

 

「僕はもう寝る。シャワーだけ浴びてな。家に居させてやるから、お前は黙っていろ」

 

 荷物鞄を部屋の隅に起き、パレットを取り出して丁寧に安置する。別に洗う必要は無い。絵の具が乾燥したとて、水を付けた筆を用いればまだ使える。

 

「えー。って、もう寝ちゃうの? 晩御飯は良いの? 食べないと駄目だよ」

 

 ふわりと、重力と慣性を無視する挙動。宙を滑る様にして、彼女は僕の眼前に回り込んできた。真横から覗き込む様な、大人びた彼女の(かんばせ)

 血の気の失せた、死蝋の白。あまりにも(あお)い、その色が、己の死をありありと謳っていた。

 

「煩い、僕は疲れたんだ。そんなに食べさせたいなら、お前が作れ」

 

 目頭を揉みながら、悪態を一つ。

 

「無理言わないでよ。私がモノに触れないの、知ってるでしょ?」

 

「なら、諦めろ。食事なんて、一食、二食抜いたって問題は無い」

 

 思考を回すための糖分さえあれば、僕は大丈夫だ。

 僕の肉体は駆動する。僕の指先は完全に掌握できる。思考は透明(クリア)なまま、部屋を出る。眠気と疲労の混色と、茹だるような夏の熱気が邪魔で仕方ない。

 

 シャワーを。冷たい雨の洗礼を。

 何もかもを、あらゆる澱みを流し清めたい。

 

 着替えとタオル、必要なものを一揃い。丁寧に折り揃えられたタオルの白さが目に染みる。その温かさ、その柔らかさに目を細め浴室へ向かう。汗に汚れた衣服を脱ぎ、洗いやすくする為に纏めて置く。

 

「────」

 

 シャワーが流す、水の飛沫。その冷たさに夏の熱気が溶けて行く。髪を洗い、身体を洗い、石鹸の白を押し流す。

 ふと、鏡を見た。

 

 僕だけが写る、反転した世界。

 僕以外に誰もいない、虚ろな鳥籠。

 昨日と何も変わらない、虚ろな僕。

 

 だと云うのに。

 

「ねー、沙也君ー! 暇なんだけどー! せめて、テレビとか点けてってよ!」

 

 現実(セカイ)はこうも喧しい。

 浴室の外から聞こえる、軽やかな声色。死者である癖に、生者よりらしく命を謳うその奔流。色鮮やかな、蒼と白。

 静寂を斬り裂く、煩わしく呪わしい彼女の声。

 

「煩い、黙れ悪霊!」

 

「悪霊呼ばわりは辞めて! 私には、葵っていうちゃんとした名前があるんだから!」

 

 名前呼びなぞ死んでもしてやるものか。

 あの悪霊が執着する『やりたい事』を全て熟して、成仏して消え失せるまで、決して名前で呼んではやらない。

 

「部屋に戻ってろ悪霊! 勝手に浴室まで入ってくるな!」

 

「分かってるわよ! 幽霊とは云え、除き魔になるつもりはありません!」

 

 漸く静寂が戻って来た。

 まだ明るい、夏の黄昏。慣れきった、孤独(ひとり)の閑静。

 だと云うのに、今はいつも以上に静かに感じる。この異常。これは、呪わしい程に鮮やかな色が増えたせいなのか。

 

「チッ、煩わしい事この上ない。黙っていても邪魔になる」

 

 舌打ちが、思ったよりも大きく響く。静寂だからこそ、大きく響く独りの声。煩わしい、大気の振動。

 呪いながら、浴室を出る。着替えは手早く、風邪を避けるが為に髪はきちんとドライヤーで乾かして。

 

「悪霊、僕は寝る。お前は──あぁ、夜は眠るんだったか。僕の部屋でなければ何処でも良い。勝手にしていろ」

 

 ぷかぷかと海月のように、気楽そうに宙に浮かぶ悪霊に声を張る。頭の後ろで腕を組み、だらけきった様子の彼女は不満げに眉を潜めた。

 

「えー、まだ全然明るいじゃん。お話くらいしようよ」

 

 重力と慣性の存在を感じさせない、黒の長髪。質量無く揺れるその御髪は、風に揺れる事はなく。彼女の動作によってのみ揺れ動く。現実を否定する非現実。どこまでも現実的に存在するのに、どこまでも非現実的に存在する。その矛盾。

 

 ──その造形は、どうすれば良いのか。

 

「黙れ。お前に追い回されたせいで、僕は酷く疲れてるんだ。邪魔する様なら、ラムネは無しだ」

 

 回りかけた思考を止める。

 人物画なんて、僕は二度と描かないのだから。

 

「……兎に角、寝室には入ってくるな」

 

 人間が最も無防備となる睡眠中。その隙は、誰にも見せない。見せたくない。たとえそれが、此方に干渉できない悪霊だとしても。

 

「分かってるって。でも、家の中をふらふらするのは良いんでしょ? それで暫く時間を潰して、暗くなったら私も寝るから」

 

 軽やかな声色と、明るいトーンに混じる寂寥。

 つまらなそうに、唇を尖らせて。

 

「分かってるなら、良い」

 

 ふらふらと揺れ動く草のような彼女から目を背け、独り寝室に向かう。白い壁紙と、白いシーツ。病室を幻視する程に無機質すぎる我が寝室。

 何故だか、つまらない気持ちになって清潔なベッドの上に身を投げた。

 

 他の部屋に置いている複製画(レプリカ)の数枚くらい、この部屋に飾っても良いかもしれない。

 飾り気のない壁を薄れ行く意識の中で見つめながら、そんな事を思った。

 

 薄れ行く意識と知覚。溶けて行く自己と、腕を広げる柔らかな闇。その狭間に、蒼と白を幻視する。

 彼女の姿を幻死して、彼女の色彩(いろ)を幻視する。

 意識に焼き付いた、()の残響。痛ましい程に鮮やかな、存在証明。

 

 ──意識は悠く、闇に溶ける。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 眠りは死に似ていると、誰かが言った。

 なる程、確かにそれは似ていた。

 意識の流れ出て行くあの孤独。自己の溶けて行くあの死滅。

 自分の消える、闇の黎明。自分が虚無(ゼロ)に溶けてしまう、あの直感。

 

 眠りと死は、確かに似ていた。

 

「ちぇ、もう寝ちゃったのか」

 

 彼が寝入って、一人になって。酷く寂しくなった部屋で、一人孤独に宙を舞う。手足の感覚は酷く朧げ。空を舞い続ける身体は、寝入ってしまう直前の様な、操作と制御の覚束ない感覚に酷く似ている。

 

「まだ明るいし、何かしようかな」

 

 久々の独り言。こうやって、死んでしまったのに迷い出てしまったすぐ後に、ほんの少しの期間だけやっていた存在確認。

 私は此処に居ると、私自身に言い聞かせる自傷行為。

 

 誰の目にも写らない不確かな私。

 写ったとしても、不確かな影の私。

 

 彼の目にだけ、確かに描かれる白の私。

 

 何故彼にだけは、見えるのか。何故私は、彼にだけ写るのか。

 その疑問は、浮いては弾ける泡のように。

 

 ふわふわと滑る様に世界を動く。

 何故だか一人孤独に暮らす、彼の家の、幾つかある部屋を一つ一つ尋ねて行く。ただ一つ、彼の寝室を除いて。

 

「ん〜、画家っての、本当なんだ。絵がいっぱい置いてある」

 

 その内の一つ。海側に面した、広い部屋。硝子の眩い、明るい工房。未だ明るく光を放つ西日が差し込む、シーサイド。

 そこには幾つもの、カンヴァスが置いてあった。

 

「海、月夜、海、森、星夜、海……偶に花? 風景画ばっかりじゃん。人間は描かないのかな?」

 

 あの偏屈な彼の事だ。きっと、自分が描くべき題材(にんげん)がいないから、と悪態混じりに言うのだろう。

 

「あ、人間の絵だ。……『オフィーリア』? 複製画、っていうやつだっけ」

 

 よくよく探せば、その工房には他にも幾つか複製画が置いてあった。『星月夜』、『糸杉』、『睡蓮』。彼の描いた絵にも似た、静寂と孤独に満ちた風景画。人間を描いたものは、幾ら探しても『オフィーリア』の一つしか見つからなかった。

 

 清潔で、綺麗で、光が良く差し込むから暖かい筈なのに。

 何処か物悲しい、彼のアトリエ。彼の心の中を現す様な孤独な世界。

 

 次第に日が暮れて、差し込む光が少なくなって消えて行く。

 彼が描いた絵と、丁寧に安置された複製画を眺めている内に、すっかり暗くなってしまった事に気が付いた。

 

 しんとした、夜の静寂。僅かに差し込む月の光。

 ふと、それに目が引き寄せられた。

 

 天窓から差し込む、冷たい月光。優しくも、冷たい、月の口付け。それが、『オフィーリア』を照らし出して、酷く綺麗に、美しく、痛いほどに飾り付ける。

 

 ただただ美しい、彼の世界。ただただ綺麗な、彼の心象。

 

 寂しくなる程に完成していて、苦しくなる程に隔絶された彼の孤独。眺めている内に染み入るようにして、眠気が襲って来る。

 

「お休みなさい、沙也君。明日はちゃんと、ラムネを買ってもらうんだから」

 

 眠気を堪えながら、なんとか(さいしょ)の部屋に戻る。

 誰も聞いていないというのに言葉を溢して、丸くなる。ふわりと空中に浮かんで、月のように瞼を閉じる。

 

 普段は孤独な。今は何処か楽しい、幻死を眠る。

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