蒼を名に冠す、君を。   作:夜月詠

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Chapter 2
サマーレコード・カプリチオ Ⅰ


 岡山の夏はいつも快晴だ。晴れ渡る蒼穹に、僅かに架る白雲。風に棚引く白の幻想。『晴れの国』の字は、なる程、疎ましくなる程に相応しい。

 

「悪霊、いつまで寝ている気だ。そこは邪魔だ、退けろ」

 

 触れる事すら出来ないから、僕は声を張るしか無い。

 我が屋に居ついてしまった、忌々しく美しい悪霊の色彩。僕の感情を逆撫でする、余りにも激しい感性(いろ)の衝動。

 全く嫌になる。描きたくもないのに、極上の色を見せつけられ続けるその様は、おそろしく不愉快だ。

 

「あと十分……もう少しだけ……」

 

「邪魔だ邪魔! よりにも寄って、アトリエの、描きかけのカンヴァスの前で寝るな!」

 

 悪霊には物質的に干渉できない。それだけならどうでも良いが、最悪な事に彼女の"厚み"に重なると視界が黒く塗り潰される。

 夜闇に放り込まれた様な帷の落ち方でなく、容赦なしに全てを漆黒で塗り潰す様な暗黒の蹂躙。どれほど目を凝らそうと、一寸先すら見通せぬ絶対の黒である。

 

「起きろ、悪霊! 僕の邪魔をする様なら、もうお前に協力しないぞ!」

 

「……分かったよ。起きるって。もう、ゆっくり寝させてくれたって良いのに」

 

 寝ぼけ眼を擦りながら、とろとろと処理の遅れた動作で身体を起こす少女のカタチ。ふと、思う。彼女を無理に起こさずとも、カンヴァスを動かしてしまえばそれで良かったのではないかと。

 ……思案した結果、その思考を切り捨てる。此処は僕のアトリエだ。何故僕が譲歩しなくてはならないのか。

 

「ふん、分かったならそれで良い」

 

 カンヴァス前の中空。そこに浮かんだまま微睡んでいた悪霊を追い払い、一人椅子に座る。イーゼルに立て掛けられた、カンヴァスの白地。そこに描いてあるのは、ラムネ瓶の線画(ラフ)

 鉛筆の、炭素の濃淡と白地の眩さだけで表現した、光を透すラムネ瓶のその輝き。虚ろに佇むラムネの亡骸。その淡さを、切りとったもの。

 

 何の気の迷いか、スケッチで終わらせる筈だったものをカンヴァスにまで写していた。

 

「白と黒しか使ってないのに、ホントに光を透してるみたい。これ、色を付けちゃうの?」

 

 絵筆を握りかけていた、その指先から力が抜ける。

 僕の、その根源を問われた気がして。

 

「……僕は」

 

 僕が描きたい画は。

 

「世界を」

 

 写実に。冷徹に。厳格に。

 見た世界を、切り取るように刻み描く。

 

 ──何の、為に?

 

「綺麗な画なんだし、色付けなくても良いと思うんだけどなぁ。すっごいリアルだけど、現実以上に綺麗な気がする!」

 

 写実と写真の違いを問う。世界を見たままに切り取るその行為。

 結果的に、どちらも同じモノを写すというのならば、そこに何の違いがあり、何の価値があるのだろう。

 同じ色彩、同じ遠近。平面に写すが故に、本質的に同義。

 

 その問いの果てに、キュビスムがある。

 見たものを解体し、単純化し、一つの世界(カンヴァス)に複数の角度から描き出す。3D空間を2D平面に二次元化する、写真を超えるがための芸術性。僕がやる事の無い、表現技法の極北。

 

「僕は、世界を」

 

 写実に。写し取るだけであるのならば。

 写真をとってしまえば済む事を、何故、僕は。

 

 狂いそうな程に追い求めて。狂う程に描き出して。

 現実的である事の、そのただ一つの真実に一体何の価値がある。

 

「君の絵、私は好きだよ。すっごい上手くて、現実的(リアル)で……それなのに、何処か冷たい。静かな夜と月の(かたち)。冷たいけど……冷たいからこそ、凍るほどに、震えてしまいそうなくらいに美しい」

 

 現実を越える写実。

 理想も、空想も排斥している癖に、何かが宿ってしまったというのなら。それを写実主義と呼んで良いのだろうか。

 そも、人を描かないこの感情(ちかい)を、写実主義と呼ぶにたるのか。

 

 求められ続けた現実と、希った芸術。

 僕は何故、絵を描くのか。

 

「……悪霊、お前、今日は何をやりたいんだ」

 

 自問自答と、自己希求。矛盾と疑義の螺旋から、目を逸らす様に呼び掛ける。

 

「んー」

 

 何か迷う様に、彼女は壁を通り抜けた。物質に干渉し得ない彼女だからこその、超常的な異常現象。筆を取りたくなる感情と、人物画を否定する理性がせめぎ合う。

 

「今日は、凪の日だし……決めた! 今日は、サイクリングに行こう! 私、2人乗りしてみたいんだ」

 

「はっ、お前が、どうやって2人乗りすると云うんだ」

 

 触れられないのだから、2人乗りも何も無い。そのフリをする事は可能だろうが、その何が良いのか。

 

「神社に行こうよ、橘坂のさ。あの神社、凪の日にお参りすると願いが叶うっていう噂があるんだよ?」

 

 願いが叶う、か。悪霊らしい、非論理的で非現実的な言葉だ。

 第一、僕はそんな噂話なぞ聞いた事がない。あまりにも根拠に欠ける、真実味のない幻想だ。

 

「……良いだろう、気分転換するのも、悪くない」

 

 決めたのなら、行動は手早く。無駄なく、余分なく、迅速に、丁寧に。荷物鞄に絵筆とパレット、絵の具と水の入ったペットボトルを仕舞い込んだ。

 スケッチがてらのサイクリングも、悪くない。

 

「なんだか、今日は素直じゃない? いつもなら、もっと偏屈な事を言いそうなのに」

 

 悪霊の戯言を聞き流し、鞄を片手に外へ向かう。

 玄関扉を開いた途端、叩き付ける様にして振り注ぐ蒼い陽光。真夏の太陽の、その輝きと暑さ。影の色濃い、明るい世界。

 アスファルトが返す熱量が、滲んでぼやける陽炎となってその熱気を証明する。

 

「それで、悪霊。お前、どうやって2人乗りする気だ?」

 

 自転車に跨って、背後の悪霊に声を掛ける。言葉だけ、振り向く事なく問い掛ける。

 

「んー、気合い? 2人乗りっぽくなるように、君の後ろを頑張って飛んでみるかな」

 

 それを2人乗りと云うのだろうか。

 

「まぁ、良い……。行くぞ、悪霊。捕まっていろよ……無理な話だろうがな」

 

「はーい。あ、安全運転でお願いね。交通事故とか洒落になんないからね! 私の死因だし!」

 

 冗談にもならない事を宣う悪霊。僕が言うのもアレな話だが、あんまりにもブラック過ぎる。

 あんまりにもアレなものだから、ペダルを踏む足先に、思わず無駄に力が入ってしまった。

 彼女が笑い声と共に溢した死の証明は、痛ましい程に非現実的で、忌々しくも現実的だった。

 

「黙れ悪霊、不吉な事を言うな」

 

 ただでさえ背後の彼女に意識を割かれているというのに、注意力散漫になってしまったら本当に事故を起こしかねない。

 苦虫を噛み潰すように、口元を歪める。視線は遠く、常に少し先の道路を見るように。務めて安全に意識を割く。

 

「おぉ〜、見て見て、瀬戸内海すっごい綺麗! 凪の日だから、太陽がとんでもなくキラキラ反射してる! 鏡みたい!」

 

「煩い悪霊! 運転に意識を割かせろ!」

 

 横目に海を見れば、確かに美しい海原の姿があった。

 水鏡の蒼穹と、青天の群青。微妙な濃淡と、光度の違いが織り成す風景画。切り取られた箱庭の様に、作り物じみた完璧な美しさだ。

 

「もー、悪霊悪霊って。前から思ってたんだけど、私には葵ってあうちゃんとした名前が有るんですけど!」

 

「悪霊は悪霊だ! 二十四時間纏わりつく、なんて言ってたお前の何処が悪霊じゃあ無いって云うんだ!」

 

 頬を撫でる柔らかな風と、燦々と注ぐ暑すぎる陽光。

 美しく爽やかながら、疎ましく呪わしい熱気が纏わりつく様に肌を撫でる。焰の舌に舐られている気分だ。

 これで悪霊が悪霊らしく、冷気の一つでも帯びていたら心地良かったのに。

 

「……飛ばすぞ、今日は暑すぎる」

 

 熱気は煩わしく、夏気は呪わしい。じとりと纏わりついて、真綿で締め殺す、じとりとした殺意を帯びた日本の夏。

 けれど、自転車で空を切るその感触は心地良い。肌を撫でる風の冷たさが、不快感の悉くを拭い去る様だ。

 

「えー、君の後ろで座ったポーズしたまま飛んでいくの結構大変なんだけど。スクワットしたまま歩けって言われたら、君も大変でしょ?」

 

 耳元で囁く様に謳う、少女の声色。からっと乾いた青空の様な、どこまでも快活な心地良い声質(ねいろ)

 大気の振動も無いのに伝わる、不明の音。時の止まった絵画の様な、美し過ぎる不自然さ。

 

「何が言いたい」

 

「気を遣え、ってこと! 女の子には優しくしなきゃ。彼女の一人もできないぞ」

 

「必要無い。そんなもの、煩わしいだけだ」

 

 男女がどうこう以前に彼女は死人だ。女の子扱いなぞ、馬鹿らしいにも程がある。それに、優しくも何も、もう彼女には何も出来ない。彼女は死人。既に終わってしまった輝き(いのち)

 触れ合う事も出来ないのに、どうやって優しくしろと云う。

 

「……ふん。優しくしろ、と言ったな?」

 

「あー、鼻で笑った! この偏屈者!」

 

 背後に()るであろう、彼女の反応は分からない。触れ合えないのだから、干渉し合えないのだから。言葉と表情(かお)で読み取るしかないのに、その表情を読めないから。

 憤慨したとでも言いたげな、その声色。その一つで、僕が何を読み取れると云う。

 

「捕まっていろ、多少飛ばす」

 

 触れ合う事が出来ずとも。そのフリなら出来るだろうか。

 決して交わる事の無い、彼岸と此岸の彼方と此方。直接触れ合えないとしても、伝わるものはありやなしや。

 

「──うん!」

 

 芸術という不確かさこそを愛する僕が、不明ながら意味のあるかもしれないその行為を、切り捨ててはいけないと、そう思ってしまった。

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