蒼を名に冠す、君を。   作:夜月詠

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サマーレコード・カプリチオ Ⅲ

 煌々と振り注ぐ太陽の下、視線の先には彼の細い立ち姿があった。メモ帳の、真白のページを手に不気味な微笑みを浮かべる、彼の姿が。

 

「何故、僕の名を──」

 

 絞り出した声は、昏く震えていた。

 

「ふふ、それはねェ……」

 

「単に立夏様が錦木様のファンだからでございますね。

 人物画の悪魔、錦木沙也。そんな彼が描く、風景画(・・・)の方を好む変人。普通に生きてるだけなのに、何かもうずっと胡散臭くて怪しい人。それがこのお方、安倍(あべ)立夏(りっか)様の社交界に於ける評価でございます」

 

 人物画の悪魔──なる程、余程僕について知っているらしい。

 もう8年近く描いていないというのに、あの名は未だ消えていないのか。

 

 耳の奥底で呼び覚まされた、疎ましく悍ましい記憶。

 成功と、失敗の様な成功。度し難い、嫌悪の追憶。

 

 ゴクリと、思わず息を飲んだ。

 

「皆まで言うかァ、縁君。一から十まで言っちゃうかァ、縁君」

 

「何の含みも無く、ただ好む画家に在ったからその記念にサインを頂こうという魂胆ですので、錦木様におかれましてはお構いなく。ファン心理、というものは実に面倒ですね」

 

「折角遭ったんだからさァ。記念に握手とか、サインの一つくらい頼んでも良くない? ダメ元だよ。……と云うか、私、そんなに怪しい雰囲気してた?」

 

 空虚さと、異質さを纏う彼のカタチ。口ぶりとは裏腹に、今一掴みどころのない振る舞い。何もかもが演技で、何もかもが幻想であるかの様な、異常性。

 

「してましたね。と云うか、サインを望むのも随分とアレです。

 今どき駄目なんじゃないですかね。失礼極まりないですよ。これは土下座が必要ですね。土下座。さぁ、早く」

 

「……いや、まァ、失礼だったかな。ファン心理って本当に厄介。ストッパー外れちゃった。不快にさせたなら謝罪するよ、誠心誠意、誠意を込めてね」

 

 白々しい、その言葉。確かな重さと共に紡がれている筈なのに、その誠意を微塵も感じない不思議な声色。

 

「白々しい。そんなだから方々で『今一胡散臭い』だとか、『嫌味っぽい』とか『糸目』とか言われるんですよ」

 

「うん、一回黙ってね縁君」

 

「イエス・マスター。……それはそうと。立夏様、田母神様からお電話です」

 

 手慣れた様子で差し出される、黒い端末。つるりとしたその機械を、彼は溜息と共に手に取った。

 

「田母神さんかァ…………。錦木君なら分かるかな、家の力というか、記号しか見てないあの不快感。あの人、アレがすっごいんだよねェ。……繋がらなかった事にできない?」

 

 声は笑っているのに、遠く伸びたその影だけが、異様に濃く、冷たく凍っている。そんな言葉の浮かぶ、異常性。

 僕か、或いは彼か。そのどちらが、おかしいのか。

 

「そうすると、後が面倒なので。前回は、大変だったでしょう? あの勘違い野郎。私も大変迷惑しました。面倒な思いをするのは貴方だけにしてください」

 

「はァ……気楽な夏休みにも、お仕事かァ……。……あぁ、先程は無理を言って悪かったね。重ねて謝罪するよ」

 

 薄い眼の、その奥に隠された光。その温度感を、読み取れない。

 薄く浮かんだ笑みの奥、隠された色彩の、その意味を。

 

「では、ご機嫌よう」

 

 嵐が去る。付け入る隙間の存在し得ない、僕を置き去りにする嵐が。過去から伸びる呪いの様な腕。呪わしく煩わしく、けれど棄てる事の出来ない過去の、その記号(かお)

 

 敗北感にも似た徒労感。一方的な情報の嵐。

 呪いにも似た、空気の沈黙。その静寂を斬り裂く、一筋の(こえ)

 

「ね、大丈夫? なんだか様子がおかしいけど」

 

 沈黙していた悪霊の、人を慮るその様子。死人に労られるなんて、笑い話にも程がある。

 

「変な人っていうか……何か、凄い人だったよねぇ。田母神って、アレでしょ? 過激な発言で、時々テレビで取り上げられてる政治家の。そんな人から電話って、良い所の人なのかな」

 

 彼が立っていた石畳の、その温感。その色彩。僕が感じた異常性の、その痕跡は何も無い。何処にでも在る、単なる石材と僅かな苔の彩り。

 

「お前には、彼が、彼等がどう見えた」

 

『見たものを、感じたままに描く』為に。脳に焼き付いたあの影と、此処に残る風景を比較する。

 その両者で、何が違うのか。光源か、角度か──あるいは、人か。過ぎ去った嵐の、その在り方を思う。

 

 悪霊たる彼女にも似た、この世ならざる異物感。

 浮世離れしたその雰囲気。蒼と白たる彼女とは異なる、表現の出来ないその色彩を。

 

「────チッ」

 

 ままならない気持ちと、自分でも訳の分からない衝動が暴れ狂う様に咆哮する。呪わしい過去と、それでも筆を取りそうになる現在(いま)

 

『あぁ、■■なんて気にするな。彼等の■は、彼等が■■のだから──』

 

 人物画という呪いは、未だ僕に焼き付いたまま。

 僕は何を、描きたいのだろう。

 

「僕、は」

 

 何の為に。

 

 何の為に、画を描くのか。

 

 震えるままに、スケッチブックを手に取った。広げた白いページの、その純白を塗り潰す様に描く。

『見たものを、感じたままに』。

 

「は、ぁ────ぁ……!」

 

 構図と奥行きを計算する、その思考に無駄な要素(いろ)が混じる。凍てる影と、蒼と白。異常が混じって、指が震える。

 構図がブレる。奥行きが濁る。パースが狂って、無駄な線と跡が増える。狂騒に駆られるまま、世界を描く。

 

「ねぇ、本当に大丈夫なの? ねぇ、ねぇってば!」

 

 過ぎ去る時の重みと、悪霊の事すら忘れ筆が動く。

 神域の静謐に入り混じる、蒼と白の人影。人間になり得る事の無い、人のカタチをした影。

 静寂に座す、呪いと衝動。狂気と狂騒。嵐の残り香。

 

「半、具象画……」

 

 ──完成。名付けるとするなら、『semi-fig : No.1 衝動』。

 

 描いたものは、呪いか希望か。

 

 あぁ、断片的ではあるが。人を描いた。

 自分自身すら、裏切って。僕は、何の為に。

 

「うむむ……現代アートは良く分かんないや……」

 

「は、は……ははは、はははは! 良く分かんない、良く分かんないか! はは、あははははッ! あァ、そう、だよな。僕自身すら、良く分かんないんだからな」

 

 そりゃあ、そうだ。描いた僕自身すら良く分からないのに、彼女(ひと)が見て分かる訳が無い。

 そんな、当たり前の事実に、笑みが溢れる。

 

「──嗚呼、そうだな。良く分かんないよ、僕も」

 

 スケッチブックを静かに閉じる。

 息を吐き出すのと共に見上げた空は、いつの間にかすっかり夕暮れの茜に染まっていた。朱い、燃えるような黄昏の空。

 僅かに架る雲が、茜に染まる紅蓮の地平。

 

 青色光が散乱によって弱まる事で生じる蒼穹の紅。大気による偏光を受けただけの、その空が。その色が。

 

 泣きたくなるほど綺麗だった。

 

「あのね。私、さっきの絵は良く分かんないけど、それでも……楽しそうだったのは、分かるよ」

 

 認めてしまえば、もう帰れない。

 僕は何故、絵を描くのか。その回答を出してしまえば、僕は写実に生きられない。だと云うのに。

 

 この衝動は。この苦痛は。この歓喜こそが。

 

「そう、だな。あぁ、楽しい」

 

 絵を描く理由、そのもので。

 故に認めざるを得ない。

 

「楽しいよ、絵を描くのは」

 

 悠く、浪の音が聞こえる。茜に照らさせる、蒼の海の、その音色が。彼方より響めく海の詩。生命の鼓動が、死を照らす。

 美しい世界(かのじょ)と、醜い人間(ぼく)のその差異を浮き彫りにする。

 影の伸びる人間と、影の落ちない幽霊。残酷なまでの現実証明。

 

 茜に染まる、その蒼を。表現したい、その姿(いろ)を。

 

「ふふん、それなら良かった。丁度、見せたいものも見せられるしね」

 

 何一つ変わる事の無い、昼間と同じ蒼と白。永遠にして不変のその死が、明るく染まる紅蓮を指す。その刹那。

 溶け行く様な淡い(いろ)が、滲んだ気がした。

 

「ここ、夕焼けが綺麗なんだ。ここまで登ると視界を遮る山が、もう何も無いから、すっごく綺麗に世界(そら)を見れるの」

 

「……あぁ、本当に、綺麗だ。腹立たしい程に」

 

 悩み、惑い、苦しむ人間(こころ)。その醜さが浮き彫りにされる様な気がして。

 

「じゃ、お参りして帰ろ。折角だし、君の栄達でも願ってあげる! その時は、私の絵でも描いてよね」

 

「はっ。誰が描くか。僕は、良いものを描くだけだ」

 

 皮肉交じりに、返事を返す。

 手にしたままのスケッチブックを仕舞い込み、そして背負う。

 

 石畳へ一歩、踏み出す。凍てる影の残響を踏み超える様に。

 一歩、また一歩。静謐の中に、石を叩く踵の音が聞こえる。

 

「君は、何をお願いするの?」

 

「特に無い。保留、という事にしておく」

 

 今はただ、画を描きたい。描きたいが、半具象画はもう描かない。自分にだって良く分からないものだから、自分自身に納得できるとは思えない。だから、アレが最初で最後の半具象画だ。

 

「神様仏様ー、どうかー、どうかー! この偏屈で意地悪だけど、腕の良い絵描きさんに、栄達をー! そして私を、その最高傑作にー! 人類史に名前が残るレベルでー!」

 

 ぱんぱんと作法も何も無い動作で、彼女はそんな胡乱な言葉を口にした。どこまでが本気なのか分からない、全部が本当なのかもしれないその言葉。

 

「──ふん」

 

 笑みが溢れるのも、仕方ないだろう。

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