頭文字Dでもし藤原拓海に兄がいたらっていう妄想

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頭文字D 影の走り屋

秋名山の頂上、午前2時過ぎ。

霧が薄く立ち込める中、AE86のエンジン音が低く唸って静寂を裂いた。

藤原拓海はいつものようにハンドルを握り、アクセルを緩めながら頂上駐車場に入る。

今日も豆腐を運び終えた後の、ただの「帰り道」のはずだった。

 

でも、そこに一台の白いAE86が停まっていた。

同じボディ、同じ色。

違うのは、ナンバーと、車高と、貼られた小さなステッカーだけだ。

 

「遅かったな、拓海」

 

運転席から降りてきたのは、藤原拓真。

拓海の二つ上の兄。

二十歳になったばかりなのに、目はもう何年も峠を見続けてきたような色をしていた。

 

「…兄貴」

 

拓海は小さく呟いて、エンジンを切る。

二人は言葉少なに並んで、ガードレールに寄りかかった。

下を見下ろす秋名の下り。

街の灯りが遠くに散らばっている。

 

「今日も勝ったらしいな。赤城の新人連中を一瞬で抜いたって」

 

拓真の声は静かだった。

でも、そこに隠れた棘は、拓海にはちゃんと分かる。

 

「…別に。向こうが来てただけだし」

 

「嘘つけ。お前が走りたがってた顔してたって、樹が言ってたぞ」

 

拓海は黙った。

兄貴は昔から、そういうところを見逃さない。

小学生の頃から、拓海が豆腐屋の配達で峠を走るたび、後ろからついてきては

「ラインが甘い」「ブレーキ遅い」「お前じゃまだ俺には勝てねぇ」

と一言ずつ、容赦なく言ってきた。

 

拓真は高校一年で秋名を制覇し、二年で群馬のほとんどの峠に名前を刻んだ。

「藤原の長男」「秋名の黒い影」

文太ですら、息子二人を並べて見た時、珍しく口元を緩めたことがある。

 

でも今、拓真の86は埃をかぶっている。

エンジンはかかっても、フルスロットルで峠を攻めることは、もうほとんどない。

 

「俺、もう走らねぇよ」

 

突然、拓真が言った。

 

拓海の目がわずかに揺れる。

 

「…どうして」

 

「分かってんだろ。お前が来たからだよ」

 

拓真は煙草に火をつけ、ゆっくり吐き出した。

白い煙が霧に溶ける。

 

「お前が初めて俺のタイムを0.3秒縮めた日。あの瞬間、文太の目が変わった。

『こいつなら…』ってな。

俺はそれで、ようやく分かったんだ。

俺はただの、繋ぎだったって」

 

拓海は俯いた。

兄貴の言葉が、胸の奥に重く沈む。

 

「俺は…別に、兄貴を超えようなんて思ってない」

 

「嘘つけ」

 

拓真が笑った。

自嘲気味に、でもどこか優しく。

 

「お前は無自覚に速い。

俺みたいに、必死になって速くなろうとしてるんじゃなくて、

ただそこに『速さ』がある。

それが一番怖いんだよ、弟」

 

沈黙が落ちた。

 

やがて拓真が立ち上がり、自分の86のボンネットを開けた。

中から古い革の手袋を取り出す。

拓海が中学生の頃、初めて峠で一緒に走った時に使っていたものだ。

 

「これ、お前にやるよ」

 

「……」

 

「俺の86もな。もう俺には重すぎる」

 

拓海は手袋を受け取らず、ただ兄を見た。

 

「…俺、兄貴の86はいらない」

 

拓真の眉が少し上がる。

 

「俺のハチロクでいい。

それで、兄貴のタイムを超えてやる」

 

一瞬、拓真の目が鋭く光った。

でもすぐに、柔らかい笑みに変わる。

 

「…ふん。生意気になったな」

 

拓真は手袋を拓海の胸に押し付けた。

 

「なら、やってみろよ。

俺を超えるまで、絶対に負けんな」

 

拓海は黙って手袋を握りしめた。

革の感触が、妙に熱かった。

 

その夜、二台のAE86が秋名の下りを並走した。

兄のラインを、弟が追いかける。

まだ0.3秒の差は縮まらない。

でも、拓海の目には、もう迷いがなかった。

 

頂上でUターンした時、拓真が小さく呟いた。

 

「…楽しみだな、拓海」

 

霧の中、二つのテールランプがゆっくり離れていく。

同じ色、同じ形。

でも、もう同じ影じゃなくなっていた。

 

 

あれから半年。

 

秋名山の頂上駐車場は、変わらず霧が濃い。

午前3時を少し回った頃、聞き慣れないエンジン音が登ってきた。

低く、滑らかで、でもどこか苛立ったような回転の上がり方。

4A-GEのNAサウンドだけど、ハチロクのそれとは明らかに違う。

FF特有の、フロントが唸るような音。

 

白いAE92カローラレビンが、駐車場の端に滑り込む。

ボディは綺麗に磨かれているのに、なぜか埃っぽい空気をまとっている。

サイドステップに小さな「T」ステッカー。

かつて拓真がハチロクに貼っていたものと同じデザインだ。

 

ドアが開いて、拓真が降りてきた。

髪は少し伸びて、でも目はあの夜と同じ色。

いや、もっと深い、諦めと闘志が混じった色。

 

「…よぉ、拓海」

 

拓海は自分のハチロクから降りて、兄貴の新型を見た。

フロントが長く、リアが短い。

ハチロクのあの完璧なシルエットとは、明らかに違う。

でも、なぜか「藤原」の匂いがした。

 

「…兄貴、それ」

 

「AE92。GT-APEXの最終型。

4A-GEの後期型載せて、足回り全部見直した。

FFだけど……まあ、悪くねぇよ」

 

拓真は苦笑いしながら、ボンネットに手を置く。

エンジンはまだ温かい。

今夜も走ってきたんだ、と一発で分かる。

 

「俺、ハチロクを手放したわけじゃねぇ。

ただ……もう、あの重さは俺には合わなくなった」

 

拓海は黙って兄の言葉を聞く。

 

あの夜から、拓真はほとんど峠に来なくなった。

拓海が走るたび、誰かが「藤原の兄貴はもう引退したらしい」と囁くようになった。

樹でさえ「拓真さん、なんか……寂しそうだったよ」と漏らしたことがある。

 

「で? お前、今どのくらい縮めた?」

 

拓真が唐突に聞いた。

 

拓海は少し目を逸らす。

 

「……0.7秒」

 

「へぇ」

 

拓真の口元が、わずかに歪む。

嬉しそうで、悔しそうで、複雑な笑み。

 

「俺のベストを、もう抜いたってわけか」

 

「…まだ、兄貴の全盛期のタイムには届いてない」

 

「嘘つけ。お前が本気出せば、俺のピークなんか一瞬だろ」

 

拓真は煙草を取り出さず、代わりにポケットから小さなデータロガーのメモリーカードを出した。

それを拓海に放る。

 

「これ、今夜の俺のデータ。

見てみろよ。

FFの限界、ちゃんと味わってみたかったんだ」

 

拓海はカードを受け取って、じっと見つめる。

 

「兄貴……まだ、走ってたんだ」

 

「当たり前だろ。

お前を超えるんじゃなくて……お前を『見届ける』ために、

俺はまだここにいる」

 

霧が少し薄れて、街の灯りがまた見え始めた。

 

拓真がAE92のドアを開け、助手席を指す。

 

「乗れよ。一回だけ、俺のライン、見てけ」

 

拓海は一瞬迷ったけど、素直に乗り込んだ。

シートはハチロクより硬く、ポジションも違う。

でも、革の匂いはどこか懐かしい。

 

エンジンがかかり、AE92が静かに動き出す。

下りに入ると、すぐに分かった。

FFはハチロクと全然違う。

フロントが食いついて、旋回が鋭い。

でも、荷重移動のダイナミズムが薄い。

兄貴はそれを補うために、ブレーキングを極端に遅らせ、アクセルを早めに開けている。

 

五連ヘアピン。

拓真のラインは、昔のハチロクのそれとほとんど変わらない。

いや、むしろ洗練されている。

無駄な動きが一切ない。

 

「…兄貴、速い」

 

拓海がつぶやくと、拓真は小さく笑った。

 

「まだだよ。

お前みたいに、『無自覚』にはなれねぇ」

 

頂上に戻った時、二人はまたガードレールに寄りかかった。

 

「俺の92、お前にやる気はねぇよ」

 

拓真が先に言った。

 

「でもな……いつか、お前がハチロクに限界を感じたら、

この92に乗ってみろ。

違う速さがある。

俺が、繋いだ速さだ」

 

拓海は黙って頷いた。

 

「…兄貴のライン、覚えた」

 

「なら、超えろよ」

 

拓真はそう言って、AE92のエンジンをかけた。

テールランプが赤く光る。

ハチロクとは違う、細長い光の跡。

 

「また来いよ、拓海。

次は……俺が追う番だ」

 

92が霧の中に消えていく。

拓海は自分のハチロクに戻り、エンジンをかける。

革の手袋を握り直す。

まだ熱い。

 

二つの影は、もう同じ形じゃない。

でも、同じ山を、同じ夜に、走り続けている。

 


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